1 米国ワシントン州シアトルのダウンタウンにあるパイク・マーケット。魚貝類・野菜・果物を売る市民の台所である。
2 米国ワシントン州シアトルのダウンタウンにあるパイク・マーケット。魚貝類・野菜・果物を売る市民の台所である。
米国ワシントン州シアトルにあるワシントン大学キャンパス内にあるアメリカンフットボール・スタジアム。背後に見えるのは
ワシントン湖。1974-5年。
米国ワシントン州シアトルのダウンタウン風景。世界博覧会のために建設された「スペースニードル」。背後はワシントン州の
シンボルであるマウント・レーニア。1974-5年。
近代的な新空港ターミナルに生まれ変わっていた大阪・伊丹空港から機上の人となり、一路東京・羽田へ向かった。生まれて初めて
飛行機なるものに搭乗した。大学時代に所属していたワンダーフォーゲル部の仲間たちがわざわざ見送ってくれたなかでの旅立ちであった。
限りなく嬉しかった。搭乗して間もなく、シートベルト着用の機内アナウンスが流れた。その着用に慌てしまい、バックルの締め方に
少し戸惑ってしまった。思わず隣席に居合わせた乗客に着用の介添えをしてもらう始末であった。
搭乗が生まれて初めてなら、故郷を離れ異郷の地へと旅立ち、単身生活をするのも初めてであった。生まれてこの方24歳になるまで、
生まれ育った故郷の田舎を離れたことがなかった。それに親元を離れての生活も初めてであった。この旅立ちを起点にして、故郷を二度と
生活の拠点にすることのない人生を歩んで行くことになろうとは、当時世界へ雄飛したいと強く願ってはいたが、いくらなんでもそんな
人生になるものと想像だにしていなかった。
飛行機の車輪が滑走路から離れた瞬間、機体もろとも我が身が宙に浮き上った。何とも言えない不思議な初めての体験であった。
機体は重力に逆らって強引に上昇を続けた。自身の体は、機体上昇の緊張や重力への抵抗で酷くこわばっていることを感じていた。
自動車のクラッチとブレーキを同時に踏みつけるかのように、両足に力を入れて床を踏みつけているかのようであった。
そして、両手のこぶしをぐっと握り締めていた。その後機体は水平飛行に移ったものの、私の心はなおも暫く高ぶり続けたままであった。
羽田空港で国際便へとチェックインした。シアトル直行便のノースウェスト(NW)機へ乗り換え、再び雲上人になった。機体が再び地上から
離れた瞬間、「これで日本とも暫くおさらばして、いよいよ太平洋を越えるのだ! 次に地上に降りたてば、そこはもうアメリカだ!」
という思いが込み上げてきた。その時のそんな心の叫びや、まるで子供のような興奮と鼓動の高まりを今でも忘れることができない。
渡米、そして留学に向かってまっしぐらに突き進みつつあると思うと、興奮の波が押し寄せてきた。機上の人となってからも子どもの
ような興奮はずっと続いていた。冬期スキー合宿の雪上テントの寝袋の中で人生の新しい目標を閃めいて以来、これまでの歩みを走馬灯のように
想い出していた。明日からのアメリカ生活のことを想像しては、期待と不安を背中合わせにして一人感情を高ぶらせていた。NW機は
午後4時頃に離陸した。だから、その何時間か経った頃には夜の帳が下り、真っ暗闇のなかを疾空していた。
暫くしてテーブルに夕食が配られた。機内で初めていただくしっかりとした食事であった。興奮がずっと続いていたこともあり、田舎を出て以来
溜まっていた疲労には勝てなかった。夕食後暫くしてうとうとし始めた。だが、神経が高ぶっていたせいで、深い眠りに沈むことは
できなかった。目を閉じて寝入ろうとするが、何度も繰り返し思い出すことは、冬山のテントの中で国連奉職を志したこと、今日の
留学が実現するまでの長い道のりことばかりであった。
太平洋の上空をまっしぐらに飛び続けてもう7,8時間は経っていたであろうか。時間の感覚があるようでまるでなかった。時折ブラインド
をほんの少しそっと押し上げて、何か怖いものを垣間見るかのように、外の世界を覗き込んだりした。かつて寝つけ薬にと毎夜聴き
ながら眠りについていた、JAL提供のあの深夜ラジオ放送番組「ジェット・ストリーム」のテーマミュージックと城卓也のナレーションを
思い起こしたりした。やはり眠れなかった。目を閉じてはジェット・ストリームの世界に一人浸っていた。
その後は時間の経過を気にも留めないまま過ごしていた。そして時折、初めて太平洋上で迎える夜明けはまだかと、ブラインドの
隙間から外界を覗き込みながら待ちわびた。その後漸く夜の帳が上がり始めた。夜空が薄っすらと白け始め、雲海と天空との間に
横たわる地平線がかすかに見える様になってきた。雲海の上には真っ青にして澄み切った天空が広がっているようだった。
夜の世界の幕が上がり、だんだんと白み始める雲上の世界は初めての体験であり、実に幻想的であった。
そのうちに、ブラインドを半開きにした。窓から淡く柔らかい光が差し込んできた。そして、太陽のはっきりとした光線が差し
込み始め機内へと広がって行った。
飛行機はシアトル・タコマ国際空港に近づきつつあった。機内で初めての朝食に感激し満足感を覚えている頃、機は少しずつ
高度を下げ始めた。着陸も近いと思われた頃、ブライドを完全に押し上げて眼下を眺めた。はっと息をのむような驚嘆の絶景が
飛び込んできた。すぐの眼下には色鮮やかな緑の森や青い湖沼が広がり、過去において見たことのない
ような美しさがそこにあった。何と美しい自然風景かと絶句した。
大学時代の部活で日本国内のたくさんの美しい自然風景に出会ってきたが、それとは全く別物の美しい森と湖沼の自然風景に圧倒された。
これほど美しい自然風景は、その後にも先にもなかった。空路上の正確な位置は分からないが、恐らくピュージェット・
サウンド湾の奥に広がる森と湖沼、さらに海とが渾然一体をなす風景に出会ったのであろう。シアトルはそんな湾奥近くに立地する港湾
と商業の大都会であった。シアトルでの生活はいわばほんのひと時かもしれないが、そんな自然美を擁するシアトルに暮らせることに
心が躍りわくわくしていた。
1974年6月下旬の週末、シアトル空港に無事着陸し、近代的なターミナルビルのラウンジへと吐き出された。
空港では、シアトル在住のある日系人の方(同郷の友人の親族の方)が出迎えてくれた。そして、バーク教授からの手紙でアドバイス
されていた「English Language School(ELS)」という語学学校にまっすぐ向かった。学校はダウンタウン近くの「ジェファーソン・
ストリート」沿いにあった。
さすがモータリゼーションの発達したアメリカであった。片側5車線ほどのフリーウェイ(無料の高速道路)を快走した。ダウン
タウンの高層ビルのスカイスクレーパーの中に吸い込まれる直前にある出口のランプウェイを下りてジェファーソン通りに入り、
その坂道を上った。それを登り切ったところに「チャンピオン・タワー」という白亜の4,5階建てのビルがあった。語学学校はその
ビルを校舎兼ドミトリーにしていた。タワーは「シアトル大学」のキャンパス内に建てられており、大学施設の一部のようであった。
一階の学務室のカウンターで入学やドミトリー入居などの手続き行なった。語学のクラス分けのための試験のスケジュールやルーム
キーなどを受け取った。こうしてアメリカ生活の第一歩が始まった。タワーのロビーには大勢の外国人や日本人がたむろしていた。
全くの余談だが、フリーウェイや摩天楼などの街並みを眺めた時のこと、何故だか脳裏に去来した一つの思いがある。「日本の
戦前の政治・軍事指導者らは、日本より圧倒的に物量のあったこんな国によくぞ戦いを挑んだものだ。真に知って知らずか、どれほどの勝算を
もって挑んだのであろうか。ほどよいところで停戦に持ち込むつもりが、できなかったということなのであろうか」。留学中、
様々な局面でアメリカの「凄さ」や豊かさ、先進性に大いに魅せられ刺激を受け続けた。
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