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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第2節 初心に戻って語学研修に向き合う


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       第4章・目次
        第1節: 太平洋を越えてシアトルへ
        第2節: 初心に戻って語学研修に向き合う
        第3節: ロースクール図書館システムに驚嘆する
        第4節: 「海洋法&海事プログラム」と海洋研究所について
        第5節: 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる



  ELS語学学校には1974年の7月初めから9月末まで、丸々3か月間お世話になった。国連奉職を志してから早くも4年以上が過ぎていた。何んとか アメリカ留学に漕ぎ着け、海洋法分野での修士号の学位取得を目指して第一歩を踏み出した、というのが率直な実感であった。 学校での生徒の多くは日本人であったが、3~4割くらいの生徒がメキシコ、グアテマラなどの中米諸国やサウジアラビアといった国々から来ていた。 既に英語試験が課せられ、その成績に基づき、機械的にクラス分けされていた。クラスの数は7~8あって、一クラスは10~15名ほどで 構成されていた。一か月間の授業を修了した時点で改めて全生徒に試験が課せられた。授業出席率なども加味された。語学試験の成績を主な 基準にして、上位クラスへの進級可否が判断されるというシステムであった。

     英語研修の内容としては、時制、仮定法、間接法などの文法学習に加え、長文の速読と読解などを繰り返すリーディング、図絵を見ながら物語を 即興的に組み立てプレゼンするスピーキングや、特定テーマでストーリーを組み立てじっくり作文するライティングなどの授業を毎日こなした。

  時を経るにつれて目が慣れて、だんだんといろいろな学内事情が見えて来た。客観的に観察できるようにもなった。語学教師は「英語を 外国語として教授する資格を有する者」がほとんどであった。その資格取得後の教鞭経験年数の他、教授能力・資質が十分に備わっているかが 重要な指標と思われた。語学学校に在籍し教鞭をとる有資格者の教師の総数や、彼らの勤務年数も、学校全体の教育レベルを測るうえでの 重要なバロメーターであった。教師によって多少は異なっていたが、彼らは一様に教授することに真剣に向き合う姿勢を取り続けていたし、また 数年以上の教授経験を有するとともに、実際上も教授技法について長けているように見えた。 

  授業では総じて緊張感が漂っていた。特に文法クラスにおける生徒の緊張はかなりのものであった。万遍なく生徒が指名され、 事例問題が矢継ぎ早に浴びせられることからいつも緊張感が張りつめていた。即答を求められることが多かったので、授業中は常時頭 をフル回転させておく必要に迫られた。 即答できなければ、すぐに他の生徒が指名され問題が振り向けられた。真剣に聴いて、いつも「即応態勢」を維持しないと、授業についていけ なかったし、また能力向上に繋げられなかった。そんな状況は、見方を変えれば、生徒の語学能力向上を図ろうとする学校や教師側の 真剣な努力の現われでもあった。文法クラスによっては週単位での小試験も課せられた。

  また、文法クラスを担任するある教師からは、毎日のように宿題が課された。宿題をいつももち帰り、毎晩「夜なべ仕事」に ねじり鉢巻きで取り組むことがほとんどであった。平日にあっては、夕食後就寝するまでの間リラックスしてテレビを見て過ごす というような余裕は余りもてなかった。 平日は各クラスでの授業においていつも緊張感をもってみっちり語学漬けにされる一方、家に帰れば毎晩のようにホームワークに 背中を突き動かされる感じで、のんびり骨休みするどころではなかった。

  髙い授業料を払っていることからすれば、それも当然といえば至極当然であった。また語学向上につながると思えば、弱音や愚痴を吐露する ような話でもなかった。学校側が生徒に怠け癖を付けさせたり、緊張感のないクラス運営に生徒を慣らしてしまうようになれば、生徒の語学向上は 望み得ず、学校の評価も何をかいわんやである。学校が低い評価や芳しくない評判に曝されれば、結局は学校経営が立ち行かなくなろう。 クラスでの緊張を適度に維持するという指導技法も、学校の良し悪しを測るバロメーターであるといえる。

  さて、学校やドミトリーの生活には難点が一つあった。学校では6~7割が日本人であり、授業を離れるとどうしても日本人同士で「群れ」、 日本語でのコミュニケーションになってしまうことである。語学学校に通う目的は語学上達であり、どの生徒にも共通する。 だが、学校で語学を学んだ後何をどうするのか、その計画や目標はそれぞれの個人によって異なっている。個人の目的意識などによって 研修に取り組む真剣さに微妙な違いが現われがちであった。

  授業では語学向上のため真面目に臨むが、それ以外ではアメリカン・ライフを気楽にエンジョイしたいという生徒も多くいた。 語学を学び上達したいのは誰も同じであっても、だが研修の終了後における身の振り方、具体的な計画や目標の有無、その内容によって 自ずと生活リズム、行動パターンなどに微妙な差異が現われがちとなる。いわば「遊学的」生活を謳歌する多くの生徒がいたのも事実である。 それが悪いという話では決してない。遊学的スタイルや生活パターンについつい引き込まれたり同調したくなりそうになる。 強いて言えば、いろいろな局面で楽な方向へイージーゴーイング的に流されがちとなる。 自身がそんな誘惑にどう打ち勝てるか、という話である。1か月もすれば、授業以外の多局面で遭遇する、彼らからの誘惑にどう抗う のか真剣に悩む 様になった。

  最初は、日本人同士で「群がる」にしても心掛けたことがある。語学学校卒業後にいずれかの大学などに入学することが決まって いるとか、専門学校で何らかのプロフェッショナルなノウハウを究め、資格や免許を取得するとかの具体的な目標がある者など、 それなりの具体的目標をもつ者同士で「群れる」よう心掛けた。将来についての有益な情報や意見を交換して、互いによりよい刺激と影響を与え合い、励まし 合えるようにした。それはそれで大事であった。それでも、まだ何かに対して苛立ちを感じていた。

  ある日、授業以外の場における環境についてはたと思い当たった。それまで身近にいた学友たちが何故かさっさとドミトリーを 飛び出して行った。ドミトリーでの私のルームメートも日本人で、どことなく遊学的であった。同じ関西出身であり、温厚な人柄で 特段の不満があった訳ではなかった。だが、如何せん語学研修の終了後は帰国して父親から社長業を継ぐというような若者らしく、 目的意識や行動パターンの面で何かとズレが感じられ、それを払拭できないでいた。 彼とルームをシェアし一緒に居ても、何の気兼ねも要らず、居心地も良く楽であった。だからであろうか、日本語での会話が徐々に 増えて行き、このまま2カ月以上も生活リズムを同調させながら流され続けていいものだろうかと、不安が強くなるばかりであった。

  かくして環境を変えようと一大決心をした。近くのアパートに引っ越し、一人自炊生活をすることにした。アパートの大家との契約後、スーツケースに身の 周り品を詰め込み、「チャンピョンタワー」から引っ越した。歩いて2,3分の所であった。環境を一変させ、日本語をオフリミットにした。 毎日のホームワークをはじめあらゆることを、自分がコントロールできる時間の中に収め、最大限の集中力をもって取り組み、もって研修と生活を有意義なものに つなげようとした。

  アパートは完全家具付きのワンルームタイプが見つかった。ベッド、ソファ、キッチン、シャワー・トイレなどがコンパクトに納まっていた。 当時の換算レートは固定相場制で1ドル365円であったので、月額200ドルの家賃は75,000円ほどであった。冷蔵庫、オーブン、コンロ、テレビ、 アイロン、ドライヤー、フライパン、鍋、什器一式などが備わるアパートであり、何の不自由なくすぐに生活ができた。 生活用具がフル装備であり、また一人で住むには広くも狭くもなく、学校にも至近距離でもあったので、べらぼうに高いものとは 感じなかった。それにわずか2か月ほどの借家暮らしであった。

、   語学学校のドミトリーについては、食事代込みで支払えば、朝食・夕食の支度・片付けもいらず楽ちんであり、何の煩わしさもなかった。 昼食はシアトル大学のカフェテリアで別支払いで済ませられた。アパート代と食材費、光熱費などは、それまでの食事付き寮費と 比べて見ても、それほど大幅アップではなかった。しかし、単身のアパート暮らしでは、特に夕食は、食材の買い出しから献立のやりくり、食後の後片付けなど、 それなりの時間を要することではあった。留学するまでの実家生活では、炊事や洗濯などほとんどのことが100%身内に支えられていた。農作業は人の何倍もこなしたが、 大学の部活で経験した食事づくりはカレー、チャーハン、焼きそば、スパゲッティ、味噌汁くらいなもので、自活に不安があった。 とはいえ、語学向上によい影響をもたらさない環境にあるのであれば、そこは何とか改善する必要があった。

  単身での自炊生活はこれまで経験したことのないビッグ・チャレンジであった。炊事、洗濯などこまごまとした、日常的にやるべき ことは一気に増えた。そして、自分ですべて切り盛りする必要があった。だが、生活上あれこれ他人に気疲れすることも、煩わされる こともなくなった。アパート暮らしをするのは、それが一つの狙いでもあった。

  自分で時間をほぼ100%コントロールし、計画性をもって生活を律するようにした。アパート内にあっては自活そのものと宿題などに全力投球し、外にあっては授業に集中することにした。 苦労もあったが、「生活力」のアップにつなげようと、時間を効率よく配分し、生活のやりくりに勤しんだ。 そんなアパート生活を2か月続けた。お陰で多少の自信にもなった。もちろん、それまでの親しい学友らと分かれて生活環境を異にしたが、 仲が悪くなった訳でも、また疎遠になった訳でもなかった。

  平日の気晴らしと言えば、親しい仲間と談笑したり、情報交換したり、また時には連れ立って近くの「ターバン」というアメリカン スタイルの居酒屋に出向くことが多かった。「クアーズ(Coors)」というシアトルの地ビールを片手に、スタンディング式円形テーブルに寄りかかり ながら、他愛もないことを語り合った。話題は語学や授業のこと、今後のアメリカでの過ごし方、今後の留学生活や将来の仕事のことであった。

  週末についてはだいたい思い思いの過ごし方を楽しんだ。語学学校主催の統一行事はほとんどなかったが、一度だけ全校生徒による 遠足のようなバスツアーがあった。シアトルの高台から、富士山を少し押しつぶしたような、3000m級のレーニア山(Mt. Rainier)が 良く見えた。シアトルのシンボルとも言える山である。未だ雪渓が残るレーニア中腹へとバス旅行をした。

  ワシントン大学から紹介されていたホストファミリーと週末を楽しく過ごすことも多かった。未だ正規の入学者ではなかったが、 何かと気にかけて気晴らしにと誘い出してくれた。旦那とは離婚していたが、肝っ玉母さんのような夫人はいつもエネルギッシュであった。4人の子どもがいて、 長男は米軍に勤め、次男も家を離れていた。長女は高校生で、その下にまだ小学生の次女がいた。最初の頃はドミトリーなどに迎えに来てくれたが、路線バス を乗り継いでシアトル郊外にあるベルビューと言う隣町に一時間ほどかけて彼女の自宅に訪ねることもしばしばであった。 ワシントン湖でボーティングしたり、ピクニックに出掛けたり、また数100km離れたスポケーンまで遠出のドライブをして、 当時開催中であった万国博覧会を見学したりもした。

  かくして、語学学校生活を終えて、学友らとの別れの時がやって来た。学友には、カナダのマクギル大学や南カリフォルニア大学に進学 する者、早々と帰国する者など様々であった。3か月間はあっと言う間に過ぎ去った。アメリカ生活に慣れ 語学能力アップの良い機会となった。次のロー・スクールでのキャンパス・ライフに向けての有意義な準備ができた。 だが、3か月間の研修で語学力にまつわる不安が十分払拭できたとは言い難かった。とはいえ、研修のお陰で少しは確実にアップ できたはず、との思いを胸に次のステージへと足を踏み入れた。

  ロー・スクール大学院における専門科目の履修や論文作成などに関する学究を振り返ってみれば、その語学力はまだまだおぼつ かないレベルであったことをたっぷりと思い知らされた。その能力不足は第一学期に現実のものとなり、ひどい衝撃を受けた。 己の語学レベルが何たるかを思い知らされ、愕然とすることになった。 そのことは後章に譲るとして、いよいよ10月になって、生活拠点を大学のドミトリーである「マーサーホール」へ、学究の拠点を ロー・スクールのある「コンドン・ホール」へと移した。



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