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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5節: 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる


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     第4章・目次
      第1節: 太平洋を越えてシアトルへ
      第2節: 初心に戻って語学研修に向き合う
      第3節: ロースクール図書館システムに驚嘆する
      第4節: 「海洋法&海事プログラム」と海洋研究所について
      第5節: 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる



  さて、時間をもう一度第一学期(1974年10~12月)のことに巻き戻すことにしたい。「海洋総合プログラム」に入学許可をえた学徒として、同学期 に履修する必須科目と選択科目、それらの単位数などをアドミッション・オフィスに届け出て、それに応じた学費を納めた。 そして、ロー・スクール大学院での講義がいよいよスタートした。 英語に自信に溢れていた訳ではないが3か月ELSで研修も積んだ月日、学期が始まるとその語学力不足をやはり味わった。逃げ出した ほでであった。そこから悪戦苦闘が始まる。授業は針のむしろの世界、特にフリー討論形跡ではなく、教授の一方的に まくしたてるような講義には苦労した。特にバークの海洋法はそうであった。 ロー・スクールでの必須科目を選択しようにも、真に興味を持って受講したいと思う科目は意外と少ないことに驚いた。必須科目中の 必須であるバーク教授の「国際海洋法(パートI)」の他には、必須科目の中から「核の抑止論」、「模擬裁判」を選択した他は 「海洋研究所(IMS)」で受講する科目を履修した。だが初っ端からつまずいた。そのつまずきは一年後のプログラム修了する時まで響いた。

  「核の抑止論」については国際社会における安全保障に関わるものであり、かつて国連の安全保障に前のめりであったこともあり、 大いに興味をそそられた。米ソ超大国が戦争の危機に直面した場合、究極の核兵器は真に戦争の抑止につながるかというのが基本的設問であった。 核兵器の存在は核戦争をどれほど抑止することにつながるか、米国では如何なる見方が一般的か興味を抱いていた。さて、「完全な抑止につながらない」 というのが講義の初めに述べられた教授の結論であった。

  敵国が先制して核ボタンを押すかもしれないという恐怖に支配された状況では、恐怖心に駆られて相手国の意図を読み間違える ことはありうる。先制するかも知れない恐怖下での極度の緊迫した事態では、理性的で合理性のある判断をなしうるか疑問である。 攻撃せねば手遅れになり、自国民が何百万人も死に至るかもしれないという恐怖から先制攻撃してしまうリスクがある。 ヒューマン・エラーによるリスクも高い。講義が何回か続くと「もしも…たら・れば」の仮定が急に多くなり抽象的理論がすこぶる 込み入るようになった。講義内容への理解度が極度に低下していくのが明らかのなり、ついにギブアップすることにした。 認識が随分甘かったと反省した。だが、本教科はまだましな方であることが後で分かってきた。

  数少ない必須科目の中から次に選ばざるをえなかったのが「模擬裁判」に関する講義であった。初っ端からついけそうもないと直感するほど悲劇 的であった。弁護士を目指して5年制のロー・スクールに在籍する学生は「ジュリス・ドクター(Jurist Doctor )」候補生と呼ばれるが、 それらの学生と席を同じくしての受講であった。講義内容をしっかり理解できないと、論点整理を行ないながら論証や反論などのための 見解を論理的に組み立てることも、論戦に加わることも全くできない。数回の講義を受けた段階でひどい消化不良を起こした。そして、 「核抑止論」と共に、ペナルティーなしでドロップアウトできるタイムリミット直前に履修を取り止め、他の科目への振り替えを模索し、 急遽履修科目の仕切り直しをした。このドロップアウトが後々の単位取得や学位授与の審査やその判断にどんな影響をもたらす ことになるか、思いは全く至らなかった。まさに知らぬが仏であった。

  第一学期での大きなつまずきはそれだけではなかった。ペナルティなくドロップアウトはできたが、放棄してしまった単位は別の科目で いずれリカバリーする必要があった。各学期における必須・選択科目の最低履修単位が規定されていたし、しかも大学院生は 平均「B」(平均80点以上)の成績を修める必要があった。心にそのプレッシャーを背負いながら、必須科目中の必須であるバーク教授の「 国際海洋法(パートI)」だけはドロップアウトできるはずもなく、また絶対にしたくなかった。指導教授の教科であり、これを修めるために留学したのも 同然であったからでもある。だがしかし、第一学期末には、留学そのものからのドロップアウトを覚悟するところまで 追い詰められるようになってしまった。

  第一学期初期段階に二教科をドロップアウトした上に、最も大事なバーク教授の「国際海洋法」の講義に出席するたびにその理解に 四苦八苦するという窮地に陥った。「海洋研究所(IMS)」でのゼミ形式の講義では、それなりの抽象的な理論も含まれていたが、具体事例をまじえた 説明も多かったので、曲りなりにも講義についていけたし、興味も持続することできた。 だが、海洋法の講義は、私には難解さがいつも付いて回り、なかなかすんなりとは理解できないでいた。 「海洋総合プログラム」に在籍する5名のロースクール院生にはその履修が必須であったが、海洋学部や水産学部などの学部生や院生らも履修しており、 合わせて20人ほど受講していた。理由が何であれ海洋法講義からドロップアウトすることなど、同プログラム在籍院生にはありえないものであった。 他教科へ振替ることもありえず、必死に食らいついて行く意外に選択肢はなかった。

  毎週バーク教授の海洋法講義については、いつも気をしっかり引き締め直し緊張感をもって臨むようにしていた。今日こそは 今まで以上に集中力を高め、講義内容を理解しようと真剣に向き合った。海洋法はそもそも留学に先だって学んできた領域であり、 どの教科よりも予備的知識があるはずであった。 だがしかし、授業が進むにつれ、理解度が上るどころかむしろ減退して行った。そして、毎回の講義途中で集中力の緒が切れて、 ギブアップすることが多くなるようになって行った。それでも、気を取り直して講義について行こうと、耳をそばだて必死に集中 するのだが、集中力は続かず途中で切れてしまった。その日の講義が終わってみれば、消化不良に溜息だけが残る状態となり愕然とする ことが多かった。私にとってはこの頃が最も苦しく情けなくなる時であった。

  「理解できない」とか、「難解である」とは具体的にはどう状態のことなのか。断片的に単語やフレーズを聴き取って、それらを脳内の スクリーンに文章として焼きつけようとする。しかし、焼きつけられず、説明内容のアウトラインすらも呑み込めないということである。 例えば、ラジオ番組のチューニングにおいて、ほんの少し部分的には聞き取れるとしても、大半はガーガーと雑音が鳴り響くかのようで、 何を言っているか内容を聞き取れないというのと同じである。聴き取れた断片的な単語やフレーズを頭の中でいくら掻き集め、それらを繫ぎ合わせようとしても、 ストーリー性と意味のある文章にできないのである。そうなれば講義内容をいくら思い出そうとしても土台無理となる。頭の中で星雲がとぎれとぎれに 渦巻いているような状態で、中心核をもつしっかりとした星雲の形にはならない、とも言える。毎回の 講義はひどく消化不良のままに終わり、最後は脳内回路がもつれにもつれ、頭真っ白で終わってしまうと言ったところである。 難解で込み入った海洋法理など、単語が断片的に点的に耳に入っても論理が線上・文章的に理解できず「海洋法」の科目

  苦肉の策というか、「溺れる者、藁をもつかむ」というか、同じプログラムに在籍するクラスメートに頼み込んで彼らの受講ノートを見せてもらい、 さらにコピーまでした。彼らは大いに協力してくれた。少しでもキャッチアップしょうと必死にもがいた。だが、手書きのノートは 実に読みづらかった。活字印刷の普通の図書を読んで、じっくり読解するようには行かなかった。ノートに目を通し何がしか断片的に 理解できることもあったが、サブテーマ毎にどんな法理や実例が論じられているのか、その内容を明瞭につかめず愕然とした。 イライラが募るばかりとなり、ついにはノートに頼ることも諦めてしまった。

  かくして、学期中バーク教授の海洋法理論の展開について行けず、ひどい消化不良を起こし続けていた私は、全く自信のないまま 期末テストを迎えることになった。覚悟を決める他なかった。幾つか与えられるテーマから一つを選択し、「タームペーパー」と称される 論文を一定期限内に提出するというテストではなかった。翻って、筆記試験方式となると聞かされた。他のクラスメートもそれには多少心を揺さぶられた ようであった。嫌な予感がしたものの、今更どうすることもできなかった。因みに、IMSでの履修科目の期末試験はすべて「タームペーパー方式」 であった。余談だが、在学中での筆記試験はバーク教授の海洋法と、われわれ5名のロー・スクール院生が受講した「海洋学」のみであった。 最もプレッシャーなく講義に没頭できたのは フレミング教授の海洋学の講義であった。ゆっくりとしたスピードで進められた。受講生は私も含めてほとんどがロースクール 出身の法学をバックグラウンドにもつ者であったから、社会科学系の生徒にも理解できるよう配慮を強く感じた。

  さて、海洋法の筆記試験は、幾つかの設問中からの選択方式であった。互いに向かい合う2つの沿岸国の大陸棚に対する主権的権利 やその境界線画定に関する設問を選んだ。1974年の、今から45年以上も前の設問であるから、その詳細を思い出すことは到底できないが、概ね次のような ものであったものと推察する。

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  設問の背景。沿岸国AとBの海岸線は向かい合っている(相対している)。その両国間の離岸距離は200kmほどである。二国間には水深100~150mの共通の 大陸棚が広がっている。A国の海岸からその陸地の自然の延長をたどると、海岸から遠くないところに最大水深500mほどの舟状海盆が海岸に平行して 走っている。そして、海盆を越えたA国寄りの沖には再び100~150mの大陸棚が広がる一方で、他方B国の海岸線からの陸地の自然延長 をたどりA国のそれと重なり合っている。

(1) A国は技術的先進国で、水深300mまでならば海底油井を掘削する十分能力をもつ。そこで、A国は、その舟状海盆を越え、かつ両国間の中間線 よりもずっと自国寄りにある水深300mの大陸棚海底(ア地点)で油井掘削を行なう計画である。

(2) 他方、B国は開発途上国であるため、自国沖の大陸棚上で海底石油などの資源開発を行なう技術力はなかった。B国の主張によれば、自国の 陸地の自然の延長は、両国の中間線を越え、その陸地が舟状海盆の深部の500mまでは続いており、自国の大陸棚の主権的権利はその 海底(イ地点)地点まで及ぶと主張する。また、A国は「1958年大陸棚条約」の非加盟国であり、A国はその地点で掘削する権利を 有しないと主張する。B国は加盟国となっている。

(3) 現在第三次海洋法会議で、大陸棚法制や境界線画定方法の見直しが審議されているものの、審議中のいずれの条約案もこの事例には 適用されないものとする。

主要設問は次の2問である。
設問(1): A国は、国際法上、舟状海盆を越えて水深300m地点(ア地点)で海底油井掘削を行なう主権的権利は認められるか。
設問(2): B国は、国際法上、中間線を越えて水深500m地点(イ地点)まで主権的権利が及ぶと主張できるか。

  設問の法的論争に適用される主なルールとしては、現行の成文国際法(多国間条約)である「1958年大陸棚条約」が一つである。適用される 国際慣習法の規定や法原則があるとすれば、それはいかなるものであるか。もう一つは「1969年の北海大陸棚の境界線画定に関する国際司法裁判所 の判決」である。これらの判例をよく理解したうえで、法理論を展開し解答を導かねばならなかった。

  設問(1)について。大陸棚条約規定では、大陸棚は海岸に「隣接する」領海の外の「水深200mまでの海底およびその下」、または「水深が それを超える場合には天然資源の開発可能なところまで」とする。沿岸国が大陸棚の権利をもつ根拠は、この隣接性や近接性にあり、 地形上や地質学上の大陸棚の定義を採用していない。また、「1969年の北海大陸棚事件の判決」では、この条約規定については、国際慣習法化 されていると結論付けている。従って、A国は条約の非加盟国であるが、A国にも同規定が適用される。A国は水深300m地点の海底であっても 開発可能であり、そこでの権利を正当化できる。また、舟状海盆があってもその地形とは関係なく、同掘削地点は両国中間線のずっとA国寄りにあり、 A国の海岸に隣接または近接していると言える。

  設問(2)について。A国は加盟国である。規定上、海岸から沖に向かい「水深200mの海底およびその下」まで主権的権利をもつが、 その権利は両国の中間線をはるかに越えて、水深500m地点にまで及ぶか。これは相対する国の境界画定の問題でもある。大陸棚条約第6条の 規定では、向かい合っている国での境界画定について、合意による決定を基本原則としつつ、合意がない時は、特別事情がない限り、 中間線を適用することと規定する。だが、北海大陸棚事件判決では、この規定は国際慣習法化されているものでないと判断しており、 A国は同規定に拘束されないが、加盟国のB国は拘束されることになる。 従って、B国は、特別事情が見当たらないので、中間線をはるかに超えて水深200mまでの大陸棚主張を正当化する権利はない。 翻って、A国は同規定に拘束されず、中間線近くまで権利を主張する立場に立てることになる。とはいえ、先ずは境界画定につき両国間で 合意をえられるよう外交的努力が求められることになる。

  1974年以降には、大陸棚法制を含む国連海洋法条約が制定され、大陸棚境界を巡る幾つもの国際司法判決事例が発出され、それらの新しい 基準やルールが成立してきた。そんな状況の中で、時代をはるかに遡ってバーク教授の設問(それも記憶がかなり曖昧の設問)を論述し、 1974年当時のルールをもって解答を試みるのは、内心忸怩たる思いがある。というのは、期末筆記試験の結果は惨憺たるものであったから である。

  結論・解まとまらず→筆記不可。現行法・慣習法・凡例などから一つの解を導き出そうとしたが、結論には辿り着けずにいた。 堂々巡りするばかりで、この結論に沿ってそれに向かって理論を組み立てようにも、その結論・解をえることができず、時間が経ってしまった。 最後は焦って法理論の組み立ても、結論もまとまらないような有りようの中で終了べるがなった。他のアメリカ人も早々と 陽子を時間的に余裕をもって提出し退出した学生は意外と少なくそれだけが慰みとなった。

  当時、この設問に接した時、大陸棚条約のいかなる諸規定や北海大陸棚事件のいかなる判例・法理をどのように適用し、いかなる理論構成や 展開をもって、また幾つもの論点を簡潔に整理して、いかなる結論を導き出すべきか、最初の可なりの時間に悩みに悩んだ。あれやこれやと 頭をひねくり回したものの、論点整理が一向にできず、解を求めるも明解で納得しうる解には辿り着けず、結論・解なければ筆も進まず、 時間半ばには焦るばかりになってしまった。多分、何の解に向かって何を論じているのか、わからないようなひどい精神状態に陥った。 さらに、まとまらない論理を英語で筆記するのであるから、答案用紙は消しゴムのくずだらけになっていた。留学生には若干時間延長が認められたが、 他の米国人受講生もぎりぎりまで答案用紙と格闘していたのには、少しはほっとした。納得の行く答案にはほど遠かったが、時間切れとなり、 解放されはした。無念の思いを引きずって教室を後にした。

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  結局、国際海洋法の筆記試験でスコア「C」をマークしてしまった。衝撃的な結果を目の前に突き付けられてしまった。 ロー・スクールの学生は「Juris Doctor」という学位取得に必要とされる成績として平均「C」を、院生は「LL.M」という学位取得 に必要とされる成績として平均「B」をマークしている必要がある。それ以下であり続けると、留学生ビザが延長されないことに もなりかねなかった。 期末試験の結果、一つのスコア「C」のために、第一学期の平均値は「B」以下となり、次学期以降にスコア「A」をマークして 相殺しなければリカバリーできないことになった。ドロップアウトした2必須教科もあったので、学位取得にはいずれかの学期で それらもリカバリーする必要があった。バーク教授から「C」という情けない致命的と思われるスコアをもらったのは、留学の経緯を 考えれば真に忸怩たる思いで胸が張り裂けそうであった。 、大陸棚の試験、語学能力不足に沈む。成績Cに心折れる衝撃を受ける 挫折、落胆、その衝撃は半端でなかった。忘れようにも 一生忘れえぬ衝撃。2学期から気をとりもどして再起をかける、続行か帰国かの真剣深刻な悩み、 だれにも相談できず。Aでもって希望をつなぐしかなく。

  次学期以降にスコア「C」を「A」でもって相殺する他に道はなかった。何よりも指導教授の最も重要な必須科目の結果に愕然とし、 最も落ち込んだ。人は笑うかもしれないが、人生の後先でこれほど心が折れた事なかった。 相殺できなければ、「留学からドロップアウトし、勉学を諦め帰国するほかない」とまで深刻に思い詰めた。道半ばでドロップアウトすれば、 推薦していただいた何人もの母校の教授などに、まして国連法務官曽野和明氏に全く言い訳も顔向けもできない。忸怩たる思いがこみ上げ、顔がひき つっていた。国連法務官を目指すどころではなくなる。雪山テントで閃き志した国連法務官、それも海洋法担当法務官への道は、夢のまた 夢であり、全ての努力が水泡に帰してしまう。それは人生最悪のトラウマを抱えてしまうことになる。誰にも言えず、一人で思い悩み、 ひどく追い詰められていた。ひどい自信喪失の状態であった。留学の危機そのものであった。

  真の原因は自身の語学力不足に行き着く。己に恥じ入るばかりであった。「バーク教授の講義では難解な法理が展開されている」 と思うのは、その能力不足の故であった。海洋法の講義に最初からついて行けず、最後まで消化不良を解消できないまま、期末試験を迎えてしまった。 だが、情けない衝撃的な結果を招いたことをバネに、背水の陣をしき不退転の決意で奮起を自らに促し、二学期に臨む他なかった。 次期にリカバリーできねば、 留学切り上げ帰国も覚悟した。しかし、支援してくれた国際法恩師、UN法務官のサポートを想えば、顔見世などとてもできない。

  学期末試験が終われば、寮生はもちろんほとんどの学生はクリスマスや年末年始を故郷などで家族や友人と過ごすためドミトリーを後にする。 ドミトリーには帰るところがないごく一部の留学生らが居残っていたが、全体としては閑散としていた。 私は時に部屋でラジオ放送に耳を傾けた。どのチャンネルを回してもクリスマス・ソングが溢れ出ていた。学業のことで落ち込んで いることもあり、自室で一人聴くと余計にメランコリな感情が込み上げ、ますます沈み込みそうであった。暗い憂鬱なクリスマス、Xmas前に長い暗いトンネルに入ってしまう。 そこで、年末年始には思い切ってスキーツアーに参加し、心機一転を図ることにした。 

  スキーでも楽しんで、沈み込んだ気持ちを少しでも逆回転させ、来学期からの学業への意欲とエネルギーを取り戻そうと自身を励まし、 思いついた。気晴らしに、居直って、思い切って。 シアトルの北東部にはカスケード山脈が横たわっているが、その山中にあるスノークォミンというスキー場へのスキーツアーに 申し込んだ。この時、私としては思い切って大枚のドル札をはたき、当時憧れのブランド的スキー板の一つ「k2」とスキー靴を買った。 それまではかなり質素倹約に努めていた。静寂としたドミトリーから脱して、また成績「C」のことをすっかり忘れて、暫く白銀の 世界で楽しくやり過ごした。ツアー参加者はほとんどが留学生であった。ツアーでノルウェーやフィリピン人の留学生と新たな 友達もでき楽しい思い出を作ることができた。 来学期のためのエネルギーをしっかりと充電することができた。来学期でリカバリーできなければ、その時には学業を諦めて故郷に 帰える決意もできた。だが、帰国に至らぬよう不退転の覚悟をもって立ち向かう準備ができた。


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大陸棚のもつ海底地形、地質などの自然特性にかかわりなく。 衡平の原則、平等になるよう線引き、地質・地形・海岸線の方向、海底地形、など要素を考慮して衡平になるよう線を調整すべき。 自然の陸地の延長をたどり200m、開発可能まで。曖昧基準。当時距離基準なく。 当時の海洋法によれば、沿岸国は大陸棚の外側限界をどこまで認められるか。共通の大陸棚が相対する国の間での境界線を画定するための 国際法、その規則原則は何か。何が画定の原則か。陸地の延長、近接性、衡平の原則。 合意に至らない場合中間線を義務的に適用するとするという国際法上にの規則はない。 .................................................................


異業種の人の知恵を、融合して、学際的アプローチ、学問のボーダーを越えて、より最適、合理的なルール、方程式、化学反応うをえる。 マンガン団塊: 精錬技術、採算経済性、コスト・収益性など。

どんな方程式にすべきか。 CSの外縁延長には地質厚さ、それは海洋地質上実際的海洋、ISAはどう途上国に方程式で還元、 そのISAの決定方法、スペイン語トラドリング魚種どう管理、内陸国の権利、CSの境界の決め方の基準は?どんな海岸や地質地形をもつ相対国 に共通しうるルールを決められるか:地中海、南シナ、東シナ海。

勿論、漁業だけでなく、大陸棚の石油ガスや深海底に賦存する深海底のマンガン団塊の資源開発や管理にかかわること、海洋環境の保全関連 事項、軍艦や潜水艦、軍用機の通航に関することなど、扱われるテーマは多岐に及んだ。




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