リヤドを時計の中心軸(ピボット)に見立てて、アラビア半島を時計廻りに旅し、ついに300度ほど回転した。コンパスの針は320度あたり、
大よそ北西方向を指した。サウジ赴任中の最後の放浪と浪漫の旅先は、エジプト経由モロッコとなった。ジプチやエリトリア、スーダン
などを素通りして、エジプトと、その遥か西方のモロッコの地を目指すことにした。ジプチなどはJICA内規により赴任先から公務
目的以外で渡航することが禁止されていたからである。旅の目標とするところははっきりしていて、是非とも実現したかった。砂漠の
中に伸びる一本の人工水路のスエズ運河をこの眼にしっかりと焼き付けることであった。そのおまけとして、「太陽の船博物館」
を見学したり、初めての体験としてナイル川にて舟遊びの真似事をしてゆったりとした時間を過ごしたかった。そして、リヤドとカイロの延長線
上にあるモロッコに専門家として赴任する友人を訪ねることであった。そのチャンスを窺っていたが、ついにやって来た。船遊びを満喫し
スエズ運河を活写する旅に出たのは2007年7月のことであった。
その友人とは、1990年代半ばにJICSに3年間出向していた折に、大変お世話になった上村氏のことである。彼はJICA水利関係専門家として
ラバトの水利省に赴任中であった。サウジアラビアがモロッコに比べてダントツに生活環境が厳しいものと心底同情してくれていた。
彼の帰任日が近いというので、タイミングを外すことなく彼の地に一度は訪ね、同じイスラム世界でありながら、どれほど社会文化的
違いがあるものなのか比較談義を交わしておきたかった。要するに、それを酒の肴にして何年も積もる話に華を咲かせ、徹夜覚悟でビールや
ウイスキーの瓶底を見たかったというわけである。
そして、もう一つ大目標とするところは、モロッコ北端に横たわり、大西洋と地中海を隔てるジブラルタル海峡を間近で「活写」し、できうればフェリーで
渡海体験をしたかった。この二つはどうしても実現したかった。いつものことだが、旅の計画づくりの段階からあれこれと思案を
重ね余暇時間を一人楽しんだ。
さて、リヤドからカイロへ直行した。私のコンパスが狂っていなければ、シナイ半島をかすめ紅海最北部にあるスエズ湾の上空
にさしかかっているはずである。やがて飛行機は、南北に帯紐のように伸びるナイル川の東側に沿いつつ、丁度紅海の北西端辺り
の海岸線沿いに飛行していた。その後、ナイル川と紅海との間の最も狭い砂漠上空にさしかかり、遠方にはスエズ運河への紅海側
入り口に位置する港町スエズがぼんやりだが眺望できた。反対側の窓からは、ナイル川の水面が陽光でキラキラと輝いていたはずである。
書物を紐解けば、古代よりナイル川河岸から紅海に抜ける運河を通すために、砂漠を開削しようと何度も試みられ、
実際に船が通行したともいわれる。今回の旅の計画として、カイロの日本人経営の旅行代理店にそんな古運河の遺構の片鱗でもガイドしてもらえないか、
本気で探って見ようと一度は思案した。だが、余りに突拍子もない申し出に酷く困惑させてしまうであろうと思い込み諦めた。
そんなことを思い出している間に飛行機はナイル川上空を低空飛行していた。
やがて、ナイル川に沿っての低空飛行は我われ乗客に思わぬ風景をプレゼントしてくれた。大河の両岸にはこんもりと樹林で覆わ
れたグリーンベルトがずっと続いていた。そして、グリーンベルトの樹間には肥沃そうな農地が広がっていた。その先には見渡す
限りの土漠が続き、地平線の彼方へと収斂していた。ナイル川には中洲が幾つもあって、樹林で覆われ、グリーンの絨毯を敷き詰めたよう
であった。飛行機はナイル川沿いに更に低空飛行し、直下にはサッカラやギザのピラミッドが間近に迫っている感じであった。まさに
ナイルとピラミッドの絶景であった。そのうち砂漠の色とはまた違った、独特のグレーのモノカラーで覆われたカイロ市街地
上空を通過後直ぐに滑走路へと吸い込まれた。かくして、古代エジプト文明を育んだナイル川とカイロ市街の上空遊覧を楽しむ貴重な体験が
できて誠にラッキーであった。
日程が許せば、ナイル川を大型観光遊覧船でアスワンハイダムの近傍まで、川辺風景を眺めながらクルーズするのも楽しい旅であるに
違いない。その昔母親が冥土の土産にしたいというので、ピラミッドや「王家の谷」、ルクソールの「カルナック神殿」などを回る
パックツアーに参加したことがあったが、船旅ではなかった。そんな古代エジプト遺跡を何時か船で巡ってみたいと
思ってはいたが、叶いそうになかった。英国人作家アガサ・クリスティの「ナイル殺人事件」の映画(1978年リメイク)に見る
豪華観光船で古代遺跡を辿るのは、贅沢の極みかもしれない。ナイル川と紅海を結ぶ古運河の遺構(今もそれがあるならの話だが)を辿る
砂漠の旅も個人的には魅力的である。古代ローマと古代中国を結ぶ「海のシルクロード」の、今は砂漠に消えた幻の「水の道」。
その遺構を辿る旅は恐らく探検家が真剣に試みるべきものであり、素人が興味本位で試すような旅ではないと諦めたものの、さりとて
ナイル川での舟遊びをいかに楽しむかの明確なプランをもたず旅に出てしまった。だが、ナイル川舟遊びならぬ、先ずは上空からの
古運河辺りと思われる砂漠などの遊覧という、思いもしなかった体験に大いに心が満たされた。
さて、スエズ運河の「初認」は三日後の楽しみにして、ナイル川でのボート遊びをもって暫しくつろぐことにした。先ず
ナイル川の大河中に浮かぶ中洲の「ゲジーラ島」にある水族館を訪れた。世界でも珍しい、ユニークなデザイン
であった。同館では人工洞窟内にいくつもの水槽が設置されていた。世界でもあまり例がないはずである。
幾つもの小型水槽が人工岩壁の中にセットされ、ナイルパーチなど主にナイル川に棲息する淡水産魚類が飼育展示される。薄暗い人工
洞窟内の飼育魚を目を凝らしながら観察して回るという変わり種の水族館に満足した。勿論、サウジに帰国後海洋辞典のウェブにて
紹介した。
その後、ゲジーラ島の東岸沿い(シャーリア・ニール沿い)をそぞろ歩きして、「カイロ・タワー」を目指した。途中、「ファルーカ」
と称される、ナイル川特有の船が岸に接近して来るのを認めた。船の全長よりもずっと高くそびえている一本マストに大きな
三角帆をもつ帆掛け船である。どうもすぐ近くの川岸に船着き場があるらしい。これはひょっとすればビッグチャンスかも知れないと
思い、船着き場を当てにして先を急いだ。ナイル川を左岸や右岸の船着き場を行き来し、気ままに渡し客を拾いながら川を遡ったり
下ったりする、いわば「ファルーカの乗合船」のようであった。
決まった時刻表などあるはずもなかったが、ルートや立ち寄る船着き場は決まっているらしい。そのうち一人の年配の女性客と
乗り合わせた。住まいはどこなのか訊ねたり世間話をしながら、時を過ごした。ファルーカは微風を推力にしながら遡航した。
まさに思い描いていた通り、のんびりとした優雅な時間が流れた。これこそが体験したかったナイル川での贅沢なほどの舟遊びであった。
偶然にも、ナイル川独特の風物詩と言える木造ファルーカに出くわし乗船でき、その幸運に感謝した。顔中白鬚だらけの老船頭が
舵棒を握りしめ、縦帆の大三角帆を巧みに操つり、桟橋に横付けしては、また離岸し遡航する。彼のそんな操船をすぐ傍でじっくり
見物させてもらった。今になって思い起こせば、運賃を支払ったのかどうなのか、記憶はあやふやであり、はっきりと
思い出せなかった。タダであったかもしれない。否、エジプトでタダということはないはずである。
ファルーカはもちろんのこと、頭にターバンを巻いた老船頭、その他川面から見上げたカイロの街風景を思いきり活写させてもらった。
その後、別のスタイルの舟遊びはないものかと、西岸沿いの散歩道であるコルニーシュ(シャーリア・コルニーシュ側)を
辿ってみた。運よく貸し船の案内板を見つけ、早速船頭と掛け合ってみることにした。さほど大きくない10人乗りくらいの船外機付き遊覧
船で、それを2時間ほどタイムチャーターできることになった。これで、ナイル川の本流に抗しながらのんびりと更に遡ることが
できると喜んだ。「異邦人」とあっては、川面に浮かぶボートからの目線で眺める岸辺の景色は格別にユニークなもので、興味は尽き
なかった。
ナイル川はもちろんだが、南米のラ・プラタ川、パラナ川、パラグアイ川、中国の揚子江、タイのチャオプラヤ川など、大陸を流れる
大河は日本のそれとはスケールが全く違う。今回は、悠然と流れ行くナイル川を右岸や左岸へと寄せながら、また川上や川下へと辿りながら、
心に余裕をもってのんびりと戯れていたかった。岸辺には何艘ものファルーカが係留されている。どの船も一本マストであるが、やはり
異様と思えるほど高かった。そして、そのマストには、これまた同じほど長い縦帆用帆桁をだらりと垂らしていた。だが、どことなく
異和感を覚えるものがあった。何故か。どのファルーカも一見したところFRP製であった。髭ずらの老船頭が操っていたのは、
木造のファルーカであり、どことなく趣きを感じさせ、また気を落ち着かせてくれた。
さて、川面を背に座り、ボートの舷縁に両腕を掛け、反対舷の遠くの川岸風景を眺めていると、父親とその息子らしき少年が小舟を操りながら、船上から
投網をしている姿を認めた。よく観察すると、小舟の艫(とも・船尾)付近には、蒲鉾型の幌をかぶせたハウスをもつ。日除けに資するだけでなく、
寝泊まりもできそうな船上ハウスのようであった。想像するに、船を住処としながら、漁労を生業としているように見受けられた。
毎日川を行ったり来たりして、その漁場を換えながら、親子で網を投げ込んでは魚を捕獲しているのであろう。
船遊びしていてある事柄に気付いた。例えばタイのチョオプラヤ川や揚子江などの大河では、普通に見られる風景がある。
だが、ナイル川にはそれがなかった。河川輸送に従事する普通の船型の貨物船が行き来していない。さらに大型バージを幾つも連結して、
タグボートなどで曳船するか、いわゆる押し船(プッシャーボート)で押しながら航行する姿がほとんどない。それが
不思議であった。ナイル川沿いには産業用原材料や資機材、食料品・日用雑貨などの製品を河川輸送するだけの需要がない所以なのか、
それとも地中海沿いの海港アレキサンドリアとカイロ間の輸送はトラックによる陸送でほとんど間に合っているということなのであろうか。
それとも貨物船舶の航行上の特別な規制があるのか。その後、その答えを見い出すことをすっかり忘れてしまった。
さて、ボートから下船後、その足でオールド・カイロ地区に足を運び、コプト教会などの史蹟を訪ねた。そして、川沿いに
南下して、「ローダ島」というもう一つの中洲の最南端にある「ナイロメーター(ナイル川水位計)」を目指した。古来よりナイル川の氾濫
は人々に苦難を強いる自然災害であった。だが、他方では氾濫地域に天然の肥料をもたらし、農地を肥沃にするという恩恵を授けるもので
あった。雨期や長雨などによってナイル川の水嵩がじわりじわりと増し、一体どこまで上昇して行くのか、昔の先人たちはどのように
水位上昇を観察し、その程度を理解していたのか。正確な使用年代はよく分からないが、歴史的遺構の一つであるナイロメーターを
一目見たくて訪ねた。
「アスワンハイダム」などが稼働する現代では、農地の肥沃化のために膨大な量の化学肥料が投入されているであろうし、また水位は
十分コントロールされているはずである。かつては、ナイル川の水を「ナイロメーター」と称される垂直竪穴式の大型チャンバーに引き込み、
その水位標の目盛りを読み取っていた。官吏はその水位の変動を絶えず観察し記録していたに違いない。現在ではそんなアナログ的で
時代遅れと思えるような水位観測施設による水嵩の増減を見守る必要もなくなり、その機能は終焉しているに違いない。
現行施設では川水がチャンバー内に導水されないよう塞がれていて、稼働させていないようであった。いずれにせよ、カイロの
シンボリックなランドマークの一つ「ナイロメーター」をじっくり見学することができ、旅の心が満たされた。
その後、往路の飛行機からたまたまその姿を間近に捉えることができた、ナイル川西岸沿いのサッカーラの古代ピラミッドを目指して
南下した。ローダ島近くでタクシー・ドライバーと交渉してタクシーをタイムチャーターした。サッカラのピラミッドはどんな様相なのか、
現地で実物を見上げて納得できた。それよりも、サッカラへ向かう途上での田園風景が印象的であった。いかにも肥沃そうな緑豊かな
農業地帯を何キロも走った。ナイル川から灌漑用排水路が網の目のように縦横に導かれていることがよく見て取れた。後で地図を見ると、
サッカーラやメンフィス地区には大きな水路が少なくとも3本は走っているようだ。かくして、ナイル川沿いの農業用地に
灌漑水が安定的に供給され、その田畑の肥沃さを肌で実感できるフィールド・スタディとなった。
灌漑水路には幾つもの橋が架けられていたが、時に間隔が間延びしていた。地域住民は遠くまで迂回しながら対岸に渡る破目になる。
彼らにはそれはそれで不便なことに違いない、と想像しながら車窓から水路を眺めていた。そんな通りすがりのこと、水路の両岸を人力で
行き来する箱舟(ポンツーン)を見かけた。小さな箱舟に乗って、両岸に渡されたロープを手繰り寄せながら他岸へと渡るというものである。
ナイルデルタに暮らす人々の工夫であった。サウジから帰任後間もなくしてニカラグアへ赴任したが、同地でもそんな渡河システム
がごく当たり前のように普及していた。大規模な動力付き機械仕掛けでワイヤーロープを回し、4,5台の車両や通行人を乗せた
大きな鉄製ポンツーンを対岸に渡すものをよく見かけた。スペイン語で「パンガ」と称されていた。かくして、日本ではもうめったに
見られないような川岸田園風景をこのナイルデルタでも発見した。
さて、サッカラのピラミッドの回りを散策し、見るべきものを目に焼き付けた。ギザのピラミッドとは全く趣きが異なり、4~5段
の壇層をもつが、それらは風雨によって浸食されたようで原形を想像することが難しい様相を呈している。かくして、
ナイル川とともに一日を過ごし、またその所縁のある地の散策を楽しむことができた。
翌日早速、第二の目的地であるギザに向かった。目指すはギザのピラミッドのすぐ傍に設置されている「太陽の船博物館」である。
古代エジプトの墳墓などから発掘された小さな船模型や、またそんな船を描いた壁画などを見たことはあったが、
「太陽の船」はそれらとはまるで次元を異にする世界的文化遺産である。ピラミッド直下のすぐ傍の地下から発掘された。バラバラになっていた
板材一枚一枚が繫ぎ合わせられた。その遺物はまさに4千年ほどの時を経て蘇った実物の船である。
船の片舷には舵の役目をする大きな櫓舵が装備される。後尾両舷には片舷数本ずつの櫂が装備されている。また、航海中のファラオが住まう
のであろう、甲板室がある。甲板室内の様相は窺い知れない。悠久の時を経て蘇った船は、余りに荘厳であり、筆舌しがたい
歴史の重みがひしひしと胸に迫りきた。何度感嘆の溜息を洩らしたことか。この日の「太陽の船」の実物鑑賞が貴重なメモリーの一部
となったことは大きな喜びであった。第二の「太陽の船」が発見され、現在も復元作業中であるという。完全に復元された第二の
古代船を拝めるのはいつ頃なのか、
世界中の人々が待ちわびていよう。
余談であるが、実はサウジから帰国後の2012年に東京でエジプト展が開かれた。観覧したかった展示物の一つは、全長2、30㎝の
小さな船模型であった。紀元前1850年頃の古代エジプトの造形物が眼前の陳列ガラスケースの中にあった。
息をするのも忘れ、ケースにぐっと身を寄せて覗き込んだ。そして、己の両眼をズームインさせた。約4000年前に造形された
船模型をこの目でしっかりと確かめることができた。本物に魅了されたことの衝撃が己の脳細胞に伝わり、自身でもそれをはっきり
と感じ取った。船殻は緩やかな弓なり状である。船体中央部で大きく垂下し、船首・船尾の両部が反り上がる。船尾の反り上がりの方が
少し大きい。マストは1本であった。そこに四角い横帆を擁する。帆の上部はヤードに、下部はブームに繋がれ展帆されている。
ヤードを転桁させる索はここでは見当たらなかった。漕ぎ手も見えない。操舵用の大きなオール (櫂舵) が船尾両舷に一本ずつ
支持用の柱に括り付けられている。
特別展での最大の展示物は、死者が冥界の旅において復活再生するために必要とされる呪文集「死者の書」(パピルスの絵巻37m)
であった。そこには古代エジプト人の死生観が宿されているという。船模型は副葬品であったが、どのような思いをもって、死者のためにこの
ような船模型が墓に納められたのであろうか。死者は冥界で最後の審判を受けるという。永遠の命を約束されて来世の楽園に辿り着く
ことができるのか、それとも別の運命に至るのかは、その審判の結果によるといわれる。この帆掛け船模型は死者がその審判の日まで冥界
を旅するためのものなのか。冥界での旅と船の副葬品との関わり合いについて今一つ理解できなぬまま、とにかく本物を観たという満足感に
浸って展示会場を後にした。
その後のことであるが、冥界への旅と「船の模型」との接点について、2012年8月21日付朝日新聞(夕刊)で次のように触れるられていた。
木・漆喰で作られたこの船模型は 「古代エジプト人が考える死後の世界には川が流れていて、そこを旅する死者には川を渡るための
船も必要だと考えられていた」。ナイル川畔で暮らした人々は、冥界にも大河があると信じた。そして、船模型の埋葬は、死者が苦難や危険に満ちた冥界の大河を無事に
通れるようにという思いに基づくものであった、ということを理解した。
休題閑話。さて、JICA専門家(漁港建設)としてかつてカイロで勤務していた友人が紹介してくれた日本人経営の在カイロ・旅行
代理店にコンタクトし、「船がスエズ運河を通航するところを見たい」と希望を事前に伝えていた。そして、レンタカーとドライバー
の手配などを依頼していた。一目でも良いから運河を見たかった。運河南側の入り口にある港町スエズにて、運河への進入路付近の
岸壁に立ってみたかった。また、一本の水路が砂漠の中を貫通するところを眺めてみたかった。そして、可能ならば、特に「日本・
エジプト友好橋」の上から、船がその航跡を残しながら運河を通航して行く様をカメラで切り撮りたかった。
さて、ホテルで代理店の車両とドライバーを待ち受けた。ドライバーが一人でやってくるものと思いきや、代理店代表の日本人社長も
わざわざ迎えに来てくれた。ドライバーの紹介が目的と思ったが、さにあらずドライブに同行してくれるという。
社長自らわざわざ車に同乗し、道案内を買って出てくれたのには、やはりそれなりの訳があるのであろうとは直感した。
運河とその両岸の一定区域は、厳重に軍の管轄下に置かれているのは当然のことと察してはいた。旅行者の私が写真撮影だけでなく、
立ち入り禁止区域への無断立ち入りなどで、軍兵士や警備員とのトラブルに巻き込まれないようにとの配慮からであろうか。
あるいは、自身のお客が万一トラブルを起こした場合には、同地で営業する代理店主として適切に対処せねばならないとの観点からか。
トラブルの防止と対処の両面から、社長自ら砂漠のドライブに付き添ってくれ、ガイド役を引き受けてくれたものと、おおよその推察
ができた。
社長の案内の下、ワゴン車はカイロから一路スエズ運河沿いの町イスマイリアに向けてひた走った。社長は道中何度か「運河は
写真撮影禁止なんですよ」と、暗に運河撮影でトラブルを避けてもらいたいと言い続けていた。トラブルにならないように同行
していることを暗に言いたかったようだ。やはり、警備に当たる軍関係者らといざこざがあっては代理店としても大変迷惑を
被ることになると、自他のことを慮ってくれたのであろう。時間の経過と共に、サウジにおけるのと同様に、写真撮影には心せねばと少しずつ
緊張感が増していった。
気が付くと我われは、地中海側の運河入り口の町ポートサイドと、紅海側のスエズとのほぼ中間地点にある
イスマイリアという、砂漠の中にある運河沿いの町をめがけて疾走していた。そのイスマイリアを脇に見ながら、今度は運河に沿って
北上した。だが、運河を実際に間近に視認できたのは、イスマイリアの北20㎞ほどのところにある、運河に架かる世界最長の旋回橋の
「エル・フェルダン鉄道橋」辺りであった。
旋回橋は鉄道橋であったが、かつて1967年の中東戦争において破壊された。アプローチ部分の橋梁だけが遺されていて、
中央部は爆破され崩れ落ちている。それでも戦争の傷跡を否応なく感じさせる、その巨大で真黒な鉄の遺構を車窓から眺望すること
ができた。黒く焼け焦げたような巨大遺構は、それを見る人に何かを訴えかけているようだ。鉄道橋の旋回部分は340メートル長
もあったという。さて、橋からさらに北へ5㎞ほど進むと、対岸のシナイ半島側のエル・カンタラというところへ渡るために運河上
に架けられた大橋が視界に入って来た。桁下70メートルの高さがある道路橋であり、通称「日本・エジプト友好の橋」(日本の
円借款・有償資金協力で建設された)と呼ばれている。
友好橋のアプローチ坂を上れば眼下に運河が砂漠の中を貫通する風景を目にすることができると、鼓動が高まるのを感じた。
道中気付いたこととして、運河沿いの道路は運河自身から結構離れたところを通る。そのため、車中から運河を観ようにも、その
姿を視界に入れることはできないでいた。髙塔やビルから見下ろせるものであればともかく、低地の砂漠地帯をドライブする限り
期待できないことであった。だから、唯一の希望として、その友好橋を渡る時が唯一のチャンスであると考えていた。幸いにも
その日は天気が良く、橋上から少なくとも砂漠の中を細い帯のように伸び行く「水の道・運河」だけは切り撮れるだろうと、
小さなデジタルカメラを、股下あたりに忍ばせて、緊張した面持ちで構えていた。ワゴン車が大橋のアプローチ道路の坂道を上り
始め、少しずつ水路が視界に入って来た。
今でも思い出すが、そんな坂道を上る途上でも、社長は何と「運河のカメラ撮影は禁止なんですが、、、、」とつぶやいた。
それを聞いて一瞬たじろきそうになったが、今更言われてもと半ば居直り、気を取り戻してカメラをぐっと握りしめた。社長としては
この期に及んでもそれを言わざるを得なかったのであろう。社長はさぞつらかったであろうと、少しは同情した。万が一軍監視兵らに双眼鏡でピンポイントで覗かれ、
渡橋後呼び止められ、カメラ没収や画像削除、そして代理店主も営業停止や罰金などを課せられる羽目になるかもしれなかったからである。
彼はそこまでは言わなかったが、客の私が何をしでかすか、気が気でなかったに違いない。社長のつぶやきに内心戸惑いながらも、
覚悟を決めて既にシャッターボタンを押すための「臨戦態勢」に入っていた。とはいえ、何処からどう監視されているか分からないと思い、
自身もそれなりに緊張していた。
社長は過去にいろいろ苦い経験もしてきたことであろうから、彼は想像以上に心配していたに違いない。橋上での停車や駐車は
勿論禁止である。写真撮影も禁止である。ましてや、橋上でワゴン車を止めて写真を撮るなどは自殺行為に違いなかった。本音では、
車を10秒でも停車してもらいたかった。そう頼みたかったが、ぐっと我慢した。私が実際にそれをドライバーに求めていれば、
社長はそれを確実に制止していたことであろう。橋の通過時初めて社長が同行してきた理由を悟った。ドライバーと私だけなら、
私がドライバーをうまく丸め込んでしまうか、買収するなどして、橋上で一瞬止めたり、ゆっくりと走行させるかして、撮影に便宜を
図ってくれるよう仕向けたかも知れなかった。社長はそれを恐れたのかもしれなかった。
橋上での停車などの不穏な動きは、必然的に監視員の目に留まる確率は圧倒的に高まる。橋を渡り切ったところの検問所で尋問に遭い、
メモリー消去やカメラ没収となっていたかもしれない。それで済めばよいが、身元引き受けのために在エジプト日本大使館員のお
世話になる破目に陥っていたかもしれない。社長はそんな出来事を何度も体験してきたのかもしれないと憶測した。まして知人の紹介
でやって来たお客だから、余計に心配してのことだったのかも知れない。彼は、アプローチの坂道を上る途上で、何度かドライバー
に「スピードを緩めるな」と指示し続けていた。
社長のつぶやきで緊張感が一気に高まるなか、長いアプローチ坂を上り続け視界がだんだんと開けてきた。
長大橋のスロープを上って行くと、見渡す限り平坦な砂漠の地平線がはるか彼方まで伸びていた。橋の中央部辺りにさしかかると、
運河というよりも一本の細い灌漑用水路のような「水の帯」が延々と伸び、砂漠の地平線の彼方に消えて行く様を初認することができた。
見たかった風景に感激の余り、身体中の血が沸点に達するようであった。これが、かのレセップスが建設した運河と思うと
最早感涙であった。
そして、ワゴン車が橋の頂上部に近づくかなり手前で、偶然にも、一隻の大型貨物船が橋をくぐってその少し先を煙をたなびかせ
ながら通り行くのが目に飛び込んできた。紅海を目指して南航中であった。活写するには絶妙のタイミングであった。
水路上を航跡を残しながら今まさに遠ざからんとしていた。そんな風景に遭遇することに淡い期待をしていたが、それが本当になるとは
信じられなかった。実際にそんなシャッターチャンスに恵まれるとは、その余りのラッキーさに驚嘆するばかりであった。
活写するには絶好の被写体とアングル、絶妙のタイミングが同時にやってきた。それは全く幸運と言う他なかった。
夢中でシャッターを押し続けた。
社長の指示もあって、ドライバーはゆっくりではなく、ハイスピードで橋を通過させようとしていた。渡橋する全ての車は
監視されていて、ゆっくりとした走行では撮影行為を目撃されてしまうと、ドライバーは焦っていたに違いなかった。私には少なくとも
そうみえた。私は私で、超焦りながら、シャッターを何度も切り続けた。だが、ハーフボタンを押してピントを合わせ次の写真一枚
を切り撮るのに間合いを取らねばならなかった。橋の頂部辺りを通過する頃には超焦りながら無我夢中で撮り続けた。
4,5枚は切り撮れたが、後でチェックしてみたところ、最高傑作の絵になる画像は何と1枚だけであった。それでもこの旅で
最も価値ある写真1葉を確保することができ大満足であった。実は橋はトラス構造になっていて、ほとんどのフレームのどこかに鉄の
柱が写り込み残念な結果になった。だが、その一葉だけはトラスを偶然うまくすり抜けて、ばっちりと水路を行く船を捉えていた。
後で気付いたことだが、連続シャッターシステムを使えばよかった。
船舶が船団形式で運河を通過する時間帯を事前に正確に計算していたのであればともかく、全く何の計算もなく、通りすがりにおいて
偶然にもこんな絶好のシャッターチャンスに出くわすなんて、こんな幸運は100回当てずっぽうに友好橋を往復しても有りえない
かもしれない。最高にラッキーなシャッターチャンスに恵まれ被写体を切り撮ることができた。長年の思いが神に通じたに違いない。
わずか10~15秒間の橋上での通過であったが、眼下に大型船が通過する瞬間をワンチャンスで切り撮れた。絶妙のシャッターチャンスに
恵まれた。最高にラッキーであった。全く幸運としかいいようがない。船が通航していなければ、砂漠の中に「灌漑用水路」が
伸びているだけの、何の変哲もない写真となっていたことであろうし、それも仕方のないことであったに違いない。
青少年の頃の夢を実現し外航船の航海士になっていたとすれば、日本・欧州間航路上にあるスエズ運河を何度も行き来したかもしれない。
58歳にならんとしてようやくその運河を見ることができ、感無量であった。若い頃の夢が破れてからも頭の片隅にしまい込んできた
スエズ運河を、たとえ通りすがりであっても、一生に一度であっても見てみたいと心に想い続けてきた。エジプトには何度か訪れてきたが、
2007年7月にその夢が叶った。JICAに1976年に入団して以来約30年後のことであった。
さて、友好橋を渡り運河東岸のシナイ半島側へ、その後は運河に平行して南下し、港町スエズへと向かった。
途中、イスマイリアの対岸に到着した。そこには運河を東西方向に行き来するフェリーの発着場があった。
暫し発着場の畔に立ちフェリーの発着を眺めた。そこで運河風景写真を間近に撮りたかった。だが、兵士の監視の目が注がれている
ものと思い、カメラは向けなかった。誤解を招いてはいけないと、車窓からも撮らなかった。到着したフェリーは、船首部のランプウェイ
を岸側のコンクリート斜路に押し付け、その間に車両や船客が乗り降りしていた。対岸はイスマイリアの町であるが、
フェリーで対岸に渡らずに、運河を見下ろせる近傍の水辺公園まで案内してくれた。
一般見学者のための公園らしく、そこには見晴らしの展望台と広場があり、運河をかなり遠くまで眺望することができた。
カイロを出発して以来そこで初めて車を降り、運河の水際まで下りて佇むこともできた。数百メートル先では、
先ほどの運河両岸の発着場を忙しく行き来するフェリーや、時に運河のバイパスを通航して行く船などをしばらく眺めた。
運河沿いに実際にドライブしてみるまでは、運河の何処で何をどれほど観ることができるのかほとんど分からなかった。
軍の支配下にあって厳しく監視や取締りがなされ、運河に何処まで近づけるか予想できなかったが、ようやくここに来て運河の見学の
ストーリーの粗筋が見えてきた。
その後、紅海側入り口の港町スエズに向けて南下し、先を急いだ。小1時間ほど走った時、はるか遠くの景色に釘付けになった。
「あれは地中海側の港町ポートサイドと紅海側のスエズとの中程にある大きな湖ではないか」と直観した。
元々スエズ運河の幅は一般的に狭くて、大型船が余裕をもって対面通航することができなかった。従って、
北上する船団と南下する船団(コンボイ)の通航時間帯を予め設定しておいて、一方向にのみ船団を交互に通航させざるをえない。
従って、そんな片面通航では、対面通航の場合と比較すれば、2倍以上の時間を要することになる。だがしかし、幸いなことに、
運河の中程に大きな湖(大・小ビター湖)がある。従って、大ビター湖を船団の対面通航と待避場所とすることによって、船団の通過
時間は大幅に短縮することができる。
湖は余りにも遠くにあり、しかも船のエンジンからの煙か、あるいは砂漠の砂塵が舞い上がっているためか分からないが、
空が霞んでいた。黒ずんだ胡麻粒のようなものが地平線の彼方に幾つも浮かんでいて、最初は何なのかよく分からなかった。
私は社長に車を止めてほしいと頼み込んだ。そして、窓を開けて目をじっーと凝らして、果たして船なのか見届けようとした。
数多くの大型船が数珠つなぎになっていた。ほぼ半分の船は船首を南に、他の半分は北に向けていることを何とか認めることが
できた。ようやく、船団が交差しようとしていると確信した。遠くの水平線辺りが黒煙で黒ずんでみえるのは、双方の船団が一斉に
エンジンをふかし、動き始めたからと見受けられた。
かくして、思いがけず、大モッラ湖(大ビター湖)で待避し、時間調整をしながらすれ違う船団の姿をかろうじて遠目にすることが
できた。しっかり目に焼き付けた。
後で地図上で見てみると、ワゴン車を停車してもらった地点は湖に最も接近する地点であった。これも大変ラッキーであった。
その地点でかすかな黒煙や船影に気付かなければ、その運河風景を活写できなかったであろう。ポートサイドと
スエズでそれぞれ待機していた船団が決められた時間に一斉に「機関前進」で出発し運河へと進入する。そしてこの湖内で一旦待機し
すれ違う。湖岸へもっと近づき、すれ違う船団の実相を見たいという衝動に駆られた。だが、アクセス道路もなさそうだし、ガイドに
無理なお願いをするのを遠慮して、すぐに諦めた。だが、車中から望遠レンズの倍率を最大にして、被写体「運河を行くコンボイ」
を切り撮った。人はその写真をみて「何を撮ったのか」と疑問を呈するであろうが、私的にはこれも価値ある一枚となった。
帰国後、分かりやすいキャプションを添えて、ウェブサイト海洋辞典の「一枚の特選フォト」にアップロードしたい。
さて、サウジに帰国後、ネットで運河通航の仕方を調べてみた。運河内の通航可能なレーンは1つであり、南北方向のいずれか一方向だけ通航
できるシステムになっている。ただし、船舶がすれ違える場所は、「バッラ・バイパス(Ballah By-Pass)」や「グレート・ビター湖」
など、5か所で可能であるという。通常は10~15隻ほどから成る船団が3組編成され、運河内を同時に航行することになる。
一例を上げれば、地中海側ポートサイドから第1船団が早朝に進入し、グレート・ビター湖に停泊し待機する。そして、第1船団は
そこで、紅海側スエズのテウフィーク港から進入してきた第2船団とすれ違う。この第2船団はエル・カンタラ近郊の「バッラ・バイパス」
をそのまま進航してポートサイドへ向かうが、ポートサイドから進入し別のバイパスを通る第3船団とすれ違うことになる。
運河を通過するには時速約15ノットの比較的低速力で11~16時間を要する。この低速航行によって運河の側岸が航跡流で浸食される
のを防いでいるという。
最後に、スエズ運河についてもう少し触れておきたい。運河は1869年11月に開通した。明治2年のことである。地中海側ポート
サイドから紅海側スエズまで全長約200km、その深さは24m、幅員は205mである。既述の通りほぼ中間点の運河西岸にはイスマイリア
という町がある。運河では喫水20m以下、または載貨重量数が240,000トン以下で、かつ喫水からの高さが68m以下で、最大幅77.5m
以下の船であれば通航可能となっている。これらを上限とする船舶基準を「スエズマックス」と呼ばれる。
運河をはさむ地中海と紅海間には海面の高度差はほとんどない。いわゆる海面式と呼ばれ、運河の中には閘門はなく、運河内の海水は
自由に流れている。潮の干満により、大ビター湖内に潮の「分水嶺」がある。スエズ運河を通ってロンドン・横浜間を航行する場合の
距離は11,000海里、20,400kmであるが、アフリカ大陸南端を回航すれば14,500海里、26,900kmとなる。運河により24%ほど
短縮されることになる。運河通航可能基準を満たさずアフリカ南端を回航する超大型船舶を「ケープサイズ」と称される。
さて、ワゴン車はさらに南下を続け、「アハマッド・ハムディ」と名付けられた、運河の下を通るトンネルをくぐり抜けた。
今度は運河をシナイ半島側から西側へと横切り、運河最南端の港町スエズへ向かった。運河の入り口は「ポート・タウフィーク」
と称される。そして、紅海側の運河へのゲートウェイの岸壁に立った。岸壁から身を乗り出すように顔を右や左に向け、時に岸壁を
往ったり来たりして、運河風景をしっかりと焼き付けた。岸壁からは、船が安全に運河へ進入できるよう、船舶誘導のための導堤の
ようなものが沖合に向かってずっと伸びている。入り口の水路幅が思っていたよりもずっと狭いにもかかわらず、運河作業船らしき
大型船舶がほぼフルスピードで進入して来る。運河通航に手慣れた船なのであろう。縦列のコンボイを組んで通過する様をこの岸壁に
立って眺望するのはさぞ見応えがあることであろうが、タイミングとしては大幅にずれていたことを、後で知った。
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