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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第3節: ロースクール図書館システムに驚嘆する


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     第4章・目次
      第1節: 太平洋を越えてシアトルへ
      第2節: 初心に戻って語学研修に向き合う
      第3節: ロースクール図書館システムに驚嘆する
      第4節: 「海洋法&海事プログラム」と海洋研究所について
      第5節: 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる
      第6節: 研究論文をもって起死回生を期す(その1)/地理的偶然による海洋資源の配分
      第7節: 研究論文をもって起死回生を期す(その2)/論文「アフリカ地域と200海里経済水域」
      第8節: 海洋学や海運学の面白さに誘われ、海へ回帰する
      第9節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする
      第10節: 海洋コンサルタントとの出会い、そしてシアトルとの別れ



  ワシントン大学は、法律や医学の専門学校であるロー・スクールやメディカル・スクールの他、海洋、水産、地理、医学、 理学、工学、経済、経営、建築、音楽など、数多くの学部・学科がそろう総合大学である。 大学は正式には「University of Washington」(略称UW)といったが、同じ州内の中東部にある都市スポケーンに「Washington State University」 という大学がある。いずれも同州の州立大学であるが、前者はシンプルに「ワシントン大学」と称された。混乱を避けるためか、後者は 「ワシントン州立大学」と称されていた。

  UWは米国北西部にある大学としては、最も広いシングル・キャンパスをもっていた。それ故 なのであろうが、キャンパスの中を路線バスが走り抜け、バス停も何か所かにあった。 そして、キャンパスは風光明媚なワシントン湖の畔に立地していた。そして、人工運河を通じて隣のエリー湖へ、さらに閘門(lock)を 経て「ピュージェット・サウンド(Puget Sound)」と呼ばれる、さしずめ瀬戸内海のように多くの小島が浮かぶ入り江へと繋がっていた。 さらに、入り江は「ファン・デ・フーカ(Juan de Fuca)」という海峡を抜けると太平洋に繋がっている。大学寮はキャンパス内に幾つもあるが、 私が入居した「マーサー・ホール(Mercer Hall)」という寮はその運河沿いにあって、週末ともなれば多くのヨットが優雅に行き交っていた。 時にそれを眺めては心を癒された。

  キャンパスは緑豊かな森にすっぽりと覆われ、何か落ち着いた雰囲気を漂わせていた。あたかも広大な植物園の中に無数の学舎 が建ち並んでいるかのようであった。エゾリスのような愛くるしい小リスが樹木から樹木へと飛び跳ね回り、リスの楽園そのものであった。 春ともなれば、キャンパス中央部に位置する広々としたパティオでは、樹齢30年以上の何本もの大樹に桜の花が咲き乱れる。パティオは 緑の絨毯にも覆われ、桜の下で幾つものパーティーができそうであるが、さすがに酒宴風景を見たことはなかった。学生らは満開の 桜を眺めながら縦横に行き交い、次の教室へと授業へと急ぐ。

  履修する教科によっては学舎は時に遠く離れているので、学生の中には教室 間の移動手段として多段式ギアをもつサイクリング用自転車を重宝していた。数多くの大学施設の存在は大量の電力を消費するようで、 大学専用の自家発電施設も稼動させていた。また、アメリカンフットボール専用の自前の大きなスタジアムもキャンパス内に設けられていた。 そもそもシアトルではUWが市民の憩いの場の一つであり、また旅行者には観光名所の一つにもなっている。かくして、キャンパスライフ を送れば送るほど、その素晴らしい大学環境に親しみ、その居心地の良さがすっかり身に沁みて込んで行った。そして、ついには大学と そのキャンパスライフに心底惚れ込んでしまった。

  休題閑話。さて、語学学校の親しくなった学友らといつしか再会できることを願って、いよいよUWのロー・スクールへと向かった。 直訳すれば「海洋法&海事プログラム(Law and Marine Affairs)」という、私にとっては最高のプログラムで学ぶことができる日がようやく やってきた。とはいえ、私にはそのプログラムが何たるものか、未だ理解できていなかった。私的には、端的に言えば、「海洋総合プログラム」 とざっくりと理解していた。ロー・スクールを無事修了し学位を取得すれば、その先には国連海洋法務官への道が手の届くところにまで 近づいて来ると、足取り軽くキャンパスへと急いだ。そして、語学学校とはまるで次元が異なる世界に身を置くということで、じわじわと迫りくる緊張感の高ぶりを肌で感じていた。

  1974年10月初め26歳になったばかりの私は、全ての私物を詰め込んだローラー付きスーツケースを引きながら、住まいを例のアパートから「マーサー・ホール」という 大学のドミトリーへと引っ越した。寮はこげ茶色のオールレンガ造りであり、 シックで落ち着きがあり、何となく趣きが感じられる好きなタイプの建物であった。ロー・スクール大学院を修了するまでそこが生活の拠点となった。「コンドン・ホール」と名付けられた ロー・スクールの建物は、確か5階建てのスマートな白亜のビルで、マーサー・ホールへは歩いて2,3分の距離にあった。 学生寮の住人のほとんどは地方出身のアメリカ人であったが、そこそこの数の留学生も入寮していた。

  大学側から事前にルームメート情報が提供されお互いに選び合った訳ではないが、私のルームメートはコールマンという苗字の白人のアメリカ人青年であった。 同じワシントン州のスポケーンという地方都市の出身であった。中肉中背で鼻筋が高く目の周りはしっかりと窪み、見るからに 知的で聡明な風貌をしていた。彼は私のことを内心ではどう思っていたか分からないが、寮の部屋で初顔合わせをした時から大いに好感をもつ ことができた。彼は日本人や東洋人へ偏見的な言動を一切見せることは全くなかった。気まずい思いをすることも一度もなく、また互いに 仲たがいすることもせず、一年近くルームを共にした。

  狭さに慣れている日本人でさえ驚くような狭い部屋での共同生活が始まって数か月経った頃、ある雑談のなかで彼は自信に満ちた 真顔で目からウロコが落ちそうなことを話し出した。その話のきっかけとなったのは何であったのかは思い 出せないが、内容は実にまじめな話であった。彼曰く、「分厚い専門図書をほんの2、30分で読むことができる」と豪語した。 初対面の人が、何の十分な脈絡もないままいきなりこんな豪語をしたとすれば、ひどい自慢話をするものだと、真剣に耳を 傾けることはなかったかもしれない。だがしかし、気心が知れていた頃のことであったので、大いに興味をそそられた。

  室内のベッドにそれぞれが腰を掛け、お互い向き合っていた。私は二人の膝が触れるほどに思わず身を乗り出し、彼の話に最後まで耳を傾けた。彼のいう 「リーディングの秘策」についての話は後に譲るとして、その秘策譚に出会っていなかったならば、私はロー・スクールをドロップアウト して帰国していたかもしれない。後から振り返れば、ルームメートの教えはそのドロップアウトの危機から確実に救ってくれた。 その後、ほぼ9か月間におよぶ3学期間をその相棒と部屋をシェアした。

  マーサー・ホールとコンドン・ホールの二つの館の間にもう一つのドミトリーがあった。そこに寮生のための「カフェテリア」と呼ばれる 大食堂があって、そこで朝晩食事を取った。クリスマスや夏期休暇、年末年始などでは、カフェテリアは閉鎖された。そんな時は、 ドミトリーに据付られたちょっとしたキッチンで、カレーライスや玉子丼などの簡単な料理を作り、暫くの期間をしのぐこともあった。

  他方、キャンパス周辺にあった幾つかのお気に入りの日本食レストランやその他で外食することもあった。特に気に入って「マイ・キッチン」にしていた質素な 食堂は、「ユニバーシティ・ウェイ(University Way)」というキャンパス沿いのバス通りに面していた。10人ほどの席しかない小さな店で、 それも止まり木スタイルであった。ジャガイモのみじん切りを鉄板上で炒めた「ハーシュ・ブラウン」と呼ばれる香ばしい食べ物がいたく 気に入り大好きになっていた。週末には大抵決まってそれとトースト、目玉焼き、小さな腸詰めソーセージなどを朝食にいただいた。

  さて、学究拠点のコンドン・ホールは居心地も良く私には普段からの最高の居場所であった。1階に一般講義室やムート・コートという模擬裁判用の 特別教室があった。そして、2階から3階までまでは吹き抜けになっていて、そこに広々とした学習室兼図書室が設営されていた。 その2階と3階の周縁の回廊部分には、数え切れないほどの書架が置かれていた。全て開架方式となっていた。そして、2階の広々とした 中央部の空間には、長さ10メートルほどの2基の木製の長机が互いに向かい合って、10列ほど並べられていた。向き合った長机は 水平でなく、着座手前側が低くなるように緩やかな傾斜が付けられていた。そのため向き合った2基の長机はその中央部で山形にせり 上がっていた。分厚く重い判例集や専門図書を長時間参照したり読んだりする場合にも、上半身や目にストレスがからないように 配慮されていた。机の中央部上方には蛍光ランプが取り付けられ、手元を適度に照らしてくれた。

  室内の床には靴音が響かないように、ブルーカラー系統のカーペットが敷かれていた。そのかわり飲食物の室内への持ち込みは 禁止されていた。室内は3階まで吹き抜けなので、何時間いても全く圧迫感などを感じさせることはなく、ゆったりとした面持で読書や 調べもの、論文執筆に専念することができた。図書室はいわば紳士淑女のためのサロンのような落ち着きのある雰囲気が漂っていた。 そして、その3階には、図書司書らの事務室も配され、図書に関してさまざまな相談やサポートに応じてくれた。かくして、ロー・スクール内の の図書室は「法律」の知の殿堂であり心臓部ともいえた。私にとっては学究に勤しむ上で、そこはまさに理想郷であった。

  4階以上のフロアには、教授陣の研究室の他に、大学院生のための研究室も配されていた。「アジア法プログラム」を専攻する 日本人や韓国人らの留学生6~7名がそこに陣取っていた。バーク教授の下で「海洋総合プログラム」に在籍する留学生は私一人であった。 最初の日本人留学生だと後で聞かされた。同じプログラムに籍を置くクラスメートは私の他に4名いた。全員がアメリカ人であった。

  彼らはどことなく若さが残る青年学生とという風貌ではなかった。どう見ても豊かな社会経験を積んできた立派な大人のいでたち であった。石油掘削会社に勤務していた者、海軍の元潜水艦乗組員、弁護士として働いていた者など、その職歴は異なるとしても、 4,5年の実社会経験を経た後学び直して高度な専門知識を取得せんと学問の世界に戻って来た人たちであった。 勿論、目途は大学院で「LL.M.」(Legum Magister, Master of Laws)と称される法学修士号の学位取得であった。独身は私ともう一人 のアメリカ人のみで、他の3人は妻帯者であった。我々5名は専用の大き目の研究室一部屋をプログラムを修了するまでずっとシェアした。

  クラスメートの面々は、第一学期には、もっぱら授業開始前に頻繁に研究室に顔を出し、皆で談笑しながら情報交換したり、時に机に向かって 勉学することが多かった。だが、時が経るにつれ、特に第2、第3学期になると来室回数はめっきり減って行った。各期末の試験当日 などにやってくるなど、必要最小限の 利用となり、いつの間にか私一人が研究室を独占的に利用し占有する状態となっていた。

  最も驚いたのが図書館での図書の貸出・返却システムであった。それは研究室を当てがわれた院生にとっての最大の特点であった。 ロー・スクールの図書室から研究室に持ち帰った図書を研究室廊下側のドア前に積んでおくとさっさと司書が書架に戻してくれた。 それだけではさほどの驚きはしなかった。キャンパス内に2つある総合図書館やその他学部ごとにある専門図書館をあちこち歩き回って、図書を借り受け研究室に持ち帰った。 10冊ほどひとまとめにして重い図書を研究室まで持ち帰るのは致し方ないことであった。

  だがしかし、それらを元の図書館にいちいち返却するために出向くのは、面倒くさいし、学究に時間をより割きたい学徒には時間の 浪費そのものであった。ところが、返却したければ、自身の研究室を出た廊下のドア脇に積んで置いておくだけで 事が足りた。ロー・スクール専属の司書が定期的に集めに回り、該当する図書館へ送り返してくれた。実に合理的なこの返却システム をフルに活用できたことは有り難かった。このシステムを生かして後に幾つもの「研究論文」を書き上げることができた。司書にも大い に感謝であった。

  余談であるが、ロー・スクールの図書室で何冊もの図書を書架から持ち出して、室内の長机で読んだりした後、それらを どう書架に戻すか、である。自分で戻す必要はなかった。それこそが初めての経験でもあった。基本的には、机上にそのままにして 退室することが決まりになっていた。司書が後ですべてを書架に戻しておいてくれた。図書の背表紙に貼り付けられた図書索引コード 通りにきちんとあるべき書架に戻されないと、その図書は簡単に迷子になる。そうなるとかなり長期にわたり行方不明になり、 後日読みたい学生らに対して多大な不便を強いることになりかねない。実に合理的な発想であった。

  さらに、いずれの図書館でも、館内机上にページを開いたままにしておいた図書は、まだ読書継続中と見なされて、暫くは片付けられない。 少なくとも翌日までは机上にそのままにしておいてくれた。翌日再館してすぐに、開いておいたページから読むことができる訳である。 寸暇を惜しんで勉学に意欲を燃やす学徒にとっては、感謝の気持ちとともに、勉学への大いなる励ましとなる。

  さて、入学手続きと履修教科の登録などをアドミッション・オフィスで済ませ、入学金も納めた後、留学生を歓迎するための大学主催の 野外キャンプに臨んだ。深い森の中に幾つかの大きな蒲鉾型の兵舎のような宿泊施設が配されたキャンプ場に、世界中からやってきた 大勢の留学生がエントリーしていた。ボランティアのアメリカ人学生をリーダーにして、7~8人ごとにグループ化された。ゲーム大会や演劇会、キャンプ・ファイア、スポーツ大会 、バーベキューなどの食事会などを楽しみ、お互いの距離を縮めて行った。私のグループでは、ノルウェー人、アフガニスタン人、 コスタリカ人、ベトナム人など国籍はまちまちであった。3日間のキャンプは、いよいよこれから留学生活が始まるという実感と気構えを否応なく掻き立ててくれた。

  かくして、学究や生活上の何の申し分のない環境の下で、第1学期が順調に滑り出した。だがしかし、時が経るにつれて、授業について 行くことの困難さに悩まされ始めた。語学能力についての懸念が現実のものとなって行った。大学の環境は申し分ないものであったが、 それに十分応えられない自分の語学能力が情けなく、ストレスと苛立ちを感じ始めていた。出口の見えない暗く長いトンネルに入り込んだ ようで、抜け出すのに半年以上ももがくことになった。トンネルをほぼ抜け出たと自信をもって意識できるようになったのは、翌年の 1975年春の第2学期が終了して暫く経った頃であった。



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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
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