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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第4節 「海洋法&海事プログラム」と海洋研究所について


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     第4章・目次
      第1節: 太平洋を越えてシアトルへ
      第2節: 初心に戻って語学研修に向き合う
      第3節: ロースクール図書館システムに驚嘆する
      第4節: 「海洋法&海事プログラム」と海洋研究所について
      第5節: 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる



  ワシントン大学ロー・スクールの「海洋法&海事プログラム」について、私は「海洋総合プログラム」と捉え、そのように意訳していた。 UWはこのプログラムをもってどのような専門的人材の育成を目指しているのか、実際に数多くの必須・選択科目からいろいろな科目を 履修しながら時々自問自答を続けていた。そして、自分なりの「解」を徐々に見い出せるようになった。その理解についてはもう少し先で 触れたい。プログラムの第一学期で学んでみて、その捉え方は遠からず近からずの適訳ではなかったかと自分なりに納得している。

  さて、プログラムに在籍するロー・スクールの5名の院生は、ロー・スクール大学院修士課程に所属しながら、「海洋研究所」(Institute for Marine Studies;  IMS)という、大学のいずれの学部や大学院にも属さない独立系の研究機関で、海洋関連の様々な自然・社会科学系の教科を履修することができた。海洋、水産、地理 、理学、生物学部などの大学院に所属する院生らも、同研究所(IMS) で海洋関連の科目を履修できた。彼らはその授業のためにIMSに その都度集ってきた。

  研究所で履修できる教科の多くは、漁業資源の開発・利用・保存、産業としての漁業の振興政策、漁業規制や管理のあり方などに関連する ものであった。もちろん、それにとどまるものでなかった。海洋の開発・科学技術全般、海底鉱物資源・海底石油ガス・海洋エネルギー などの開発・管理、海洋環境の保全、船舶の通航、海洋国際組織論などの教科があり、それらが包摂するテーマや単元は広範囲に及んでいた。

  日本の法学部でのフレッシュマン時代には、心理学、社会学、政治学、哲学などの一般教養科目を履修したが、その後は 憲法、刑法、民法、民事・刑事訴訟法、行政法、国際法など、ほとんどがそれらの法理論や法令の解釈・適用・判例の学習ばかりを、 長年飽きもせず、学びの対象としてきた。その後は大学院の研究テーマとして、国連の安全保障制度や平和維持組織(PKO)に関心を もつようになったものの、国際法を中心に据えながら、憲法をはじめ公法諸学をさらに深掘りすることに多くの時間を費やした。 少し分野が異なると言えば、ギリシャ哲学やロシアをめぐる国際政治史くらいであった。

  特別研究生になってからは、国際法の一領域である国際海洋法を中心に深掘りした。その適用空間は基本的に海洋であったが、やはり法理や法制の 学究であった。だから、私のような法律諸学の学徒にとっては、UWの「海洋研究所」において学びの対象とした履修教科は、どれもこれも 過去に学んだことのない全く異領域に属する学問領域、それも自然科学系に近い領域であり、実に新鮮なものであった。まさに目からウロコが落ちることの 連続であった。

  海洋研究所で最初に学んだ必須科目としてはいずれも水産学の基礎的理論、いわば「水産学パート(I)」といったところである。 その中心テーマは漁業に関する基礎理論、漁業政策・行政全般や水産資源の開発・管理、国際的な漁業規制・管理に関するものであった。 海洋の魚貝類・哺乳動物などの生物資源は「誰の物」かという古くて新しい「そもそも論」のテーマから始まった。単位当たりの 漁獲努力量(fishing efforts per unit; FEPU)と最大持続生産量との関係、 漁船隻数・漁獲量・漁期・漁獲割当・網目サイズなどによる漁業規制、漁業への新規加入者や既存漁業従事者との関係性や管理論などの 水産資源管理に関する基礎理論を学んだ。また、北太平洋や北大西洋などにおける水産資源の国際規制、オリンピック方式がもたらす 乱獲など、国際的な資源管理論や課題などを学んだ。初めて触れる自然科学系の水産学のさまざまな概念や経済理論に触れたのは、全くもって 新鮮であり、興味津々であった。

  講義で特に興味をもったのは、漁業資源の「最大持続生産量」(Maximum Sustainable Yield; MSY)や「最適生産量」(Optimum Yield)に関する 基礎理論であった。漁船隻数や漁具数・規模、操業従事者などが増え続け、単位当たりの漁獲努力量が増大すれば、それに比例して漁獲量も増大していく。 しかし、努力量をさらに増やしても漁獲量は必ずしも増えず減少に転じて行く。漁獲量のピーク前に全漁業者が操業をストップすれば、 資源量に悪影響を及ぼさない。だがしかし、早い者勝ちの操業を繰り返すと、ほとんどの場合MSYを超過し、ついには深刻な乱獲に陥る 可能性がある。目指すべきはMSYではなく、操業者が最大の経済的収益を得られるような漁獲量に抑えること、また市場を睨みながら 適切な漁期を選ぶことなどによって、最適生産量を目指すべきとされる。OYはMSYよりもずっと少ない単位当たり漁獲努力量で達成 されると論じられる。このような漁業経済学、資源管理学、法制論が入り混じる諸学に生まれて初めて接した。複数の教授が出席しての セミナー形式の講義に加え、実際の漁業従事者を招聘しつつ、院生らの出席者全員による自由闊達な議論には、新鮮さと驚きを感じず にはおられなかった。

  ところで、折りしも第三次国連海洋法会議が開催され、主要テーマ・法制ごとに利害を同じくする諸国がいろいろな大小 グループを形成し、重要な海洋法制につき提案し、条約案に反映させようとしていた。その代表的なグループが、中国を初めとする 発展途上国で構成される「グループ77」であった。米ソ軍事超大国、欧米諸国、海峡沿岸国、地理的不利国、内陸国などのグループがあった。 「グループ77」は200海里排他的経済水域(200海里EEZ)の条約化を強固に支持していたが、米ソや欧州諸国などの先進諸国はもろ手 を上げてそれに賛成していた訳でなく、その新制度の行方はまだまだ定まっていなかった。

  日本は、遠洋先進漁業国の立場から、200海里EEZに頑なに反対し、「3海里の狭い領海と、より広い公海」、「公海での漁業の自由」 を金科玉条の如く唱えていた。会議では「エクセプト・ワン(日本を除いて)」と揶揄されるほどに、国内の漁業利益団体の圧力に押されて 、会議では頑としてEEZに反対の立場をとっていた。留学1年目の1974年においては、諸国からの数多くの提案がようやく議長采配に よって「非公式単一交渉草案」としてとりまとめられる努力が続けられていた頃であった。国連での200EEZを巡る議論の深掘りはその後のことで、 その行方はまだまだ混沌としていた。何故ならば、会議は全参加国のコンセンサス方式で採択されることで合意されていたからである。

  200EEZの行方に大きな影響をもたらす可能性を秘めていたのは、やはり米ソ超大国の戦略であり軍事的な思惑であった。 潜水艦搭載大陸間弾道弾(ICBM)を保有する米国・ソ連は、軍事戦略上「国際海峡」における艦船の自由な通航、潜水艦の潜航したままでの通過、 軍用機の上空飛行などを求める立場と国益で一致していた。軍事戦略を最重要視する米ソにとっては、ペルーやチリなどの南米沿岸諸国 らが主張していた200海里幅の「領海」の法制化を受認することなどは論外であった。だが、米ソをはじめ英・仏などの海洋強国は、 200EEZの主張をどう受けとめ、いかなる内容のEEZ法制を受認するか、どう扱うかについて腐心していた。

  数多くの世界の国際海峡の領海幅が3海里から12海里に拡大された場合、両岸24海里以下の国際海峡には「公海」部分が残されず、 「領海化」されてしまうことになる。特別な海峡制度を条約化しない限り、 潜水艦の潜航通過や軍用機の上空飛行などの権利は認められなくなる。かくして、米ソが200EEZを容認する見返りとして、 「グループ77」は国際海峡における特別な通航制度を容認するという、抱き合わせの妥協的取り引きと最終合意に引き込まれる可能性 があった。

    だとしても、「グループ77」や先進欧州諸国にとっても、また米ソ超大国にとっても、200EEZをどういう具体的なレジームに仕上げる かは重要なテーマであった。米国にとっては、200EEZという排他的な漁業資源管轄権をもつことになれば、日本や欧州などの遠洋漁業国 を沿岸水域からフェーズアウトできた。また、漁業権益に深刻な負の影響がもたらされるという懸念はなかった。しかし、米国にとっても、 200EEZをいかなる内容のレジームにすべきか重大な関心をいだき、それと向き合っていた。それはソ連も同じであった。米国もソ連も広大な 200EEZを保有する可能性があり、その場合水産資源に対する莫大な権益を囲い込めることになるのは間違いなかった。かくして、IMSでのいろいろな 講義において、200EEZの条約化、その国内法への法制化、その他国際漁業規制・管理にかかわる諸事項につき、喧々諤々の熱い議論が展開された。

  米国がたとえ200EEZを受認するとしても、自国の漁業者、あるいは外国の漁業者に対して自国EEZ内において、国内法上あるいは新海洋法上 いかなる漁業規制に服させるべきか、あるいはいかなる水産資源管理制度を構築するべきか、いろいろ検討すべき事項は山積していた。 米国の排他的管轄権の下に置かれることになる200EEZ内の漁業資源をどのような魚種別管理に服させるべきか、また国内の漁業者に 対して漁業資源をどのような法的枠組みの下で漁業資源を割り当てるべきか、その配分のための方法や基準をどうすべきか。 新規の漁業加入者はいかなるレジームの下で参入が認められるべきか、公開入札制度によって新規加入者に対して余剰水産資源の 割当を行なうことが公正で合理的であるのか、などなどである。

  米国はこれまで原則として3海里幅の領海以遠の公海における「漁業の自由」を尊重し、それを基本にして関係遠洋漁業国と二国間・多国間漁業条約などを 締結し、資源の国際的な配分・保存・管理に関与してきた。だが、200EEZが条約化されれば、例えば北太平洋における「日米加漁業条約」などの 見直しが不可避となろう。米国はその見直しに際していかなる漁業政策を執るのか。遡河性魚種のサケ・マス資源については、日本は遠洋 漁業国として、アラスカ沖、ベーリング海、ブリストル湾などの米国沿岸水域や近海まで進出し沖獲りをしてきた。だが、米国は同資源の母川国 として、人工ふ化放流、河川環境保全などに大きな予算を投じて資源保護・管理へのに努力を払ってきた。米国は将来日本やカナダその他 の遠洋漁業国とどう向き合うことになるのか。いずれにせよ、米国は自身の200EEZの設定によって他国と調整すべきことは多いが、 日本と比して失う権益は圧倒的に少なかった。米国にとって、外国漁船による米国沿岸や近海における乱獲を規制し、優先的に国内漁業者の利益を 護り、その水産資源の保存を図るうえで、200EEZレジームはまさに有効であり、国益に適うと見なされる可能性があった。 軍事戦略上の国益が究極的に確保されるのであれば、米国にとっては200EEZを受け入れることは自国の漁業権益確保にとって渡りに船といえたかも 知れない。

  IMSでは、200EEZと深い関係性のある魚種別管理をどう条約に盛り込むかも議論の大きなテーマであった。マグロ・カツオの「高度回遊性魚種」、 サケ・マスの「遡河性魚種」、ウナギなどの「降河性魚種」などは、公海と200EEZを自由に行き来するいわゆる「ストラドリング魚種」であり、 その扱いをめぐり多くの課題について論じられていた。沿岸国の自国EEZ水域内における「余剰の水産資源」、すなわち当該沿岸国が 漁獲しきれない資源をいかなる条件下で、何れの遠洋漁業国や近接漁業国にいかなる漁獲枠を認めるのか。沿岸国が獲り尽くせない余剰資源に対する他国の漁業権について 利害調整をどのように図るのかであった。外国漁船に対して余剰資源の漁獲を合理的に認めなければ、沿岸国は水産資源を有効利用 することなく独占的に囲い込むだけであり、結果的に無駄にすることになる。かくして、国連海洋法会議の真っ最中とあって、IMSでの 講義はさまざまな重要な法的レジームや政策課題に議論が及んでいて興味は尽きなかった。

  ところで、IMSでの講義のやり方はほとんどの場合いわゆる「セミナー方式」であった。 IMSは何の科学的実験施設・装備や操業試験船などを保有せず、漁業政策や法制にかかる論議を縦横に展開しながら、その教育的使命を果たすところと理解した。 海洋研究所の所長はマッカーナン教授が務めていた。彼は長く国務省において国際漁業を担当する元国務次官補であった。米国が関与する 国際漁業規制や資源管理などに関するいろいろな授業を受講するために、ロー・スクールに在籍する「海洋総合プログラム」在籍院生に加えて、 海洋・水産・地理・理学・生物学部などの大学院に在籍する院生10~15人ほどが参加する講座が多かった。講義には、IMS所長をはじめ、 IMS専属の担当教授、ロー・スクールのウイリアム・バーク海洋法教授、あるいは他大学から招聘された 教授らも参加したりした。先ず講座担当教授が基調講義を20~30分行い、その後全員でテーマに沿って白熱した議論が交わされた。

  講義には時に、地元の漁業従事者らがゼミに招聘され、将来制度化されるかもしれない漁業規制や管理にかかわる議論に加わることもあった。教授・院生は新しい 200EEZ法制や漁業規制について自由闊達に議論するのに対し、漁民は自身の立場や利害を踏まえ、するどい質問や異論などを提起したりした。 例えば、200EEZ水域内での操業規制や資源管理の在り方、魚種別の資源管理や漁獲割当制、新規加入者の入札方式による漁業参入のあり方など、 漁業者にとって死活的に利害が絡み合い、彼らの生活が懸かるテーマであるだけに、議論は自然と白熱したものとなった。 院生によるその時々の質問や見解陳述、さらに教授のコメントなどによって、議論は予想を超えた展開と深掘りがなされることがしばしばであった。 議論が四方八方に拡散されるように見えても、学期末の最終局面ではそれなりに収斂し成熟化したものへと落ち着くことになる。

  さて、第一学期にIMSで幾つかの科目を受講し、「海洋総合プログラム」の教育上のゴールや意義について自分なりに 肌で感じることができた。法律の解釈・適用ばかりに関わってきた私のような学徒がいくら頑張っても、漁業や海底鉱物資源開発そのものに ついて何も知らずして、新しい海洋法制上の課題に立ち向かい、「適解」を見い出そうとしてもなかなか困難であると悟った。法律以外の 海洋関連諸学を学び、それら諸学の学徒と交わり議論を共にし、最適解に辿り着こうとすることが、同プログラムの理念的出発点で あると感じた。

  IMSには自然科学系と社会科学系、さらに工学系の教育的バックグランドの異なる院生たちが、一つの教科の下に集まり、 講義を受け、他の専門的知見に耳を傾け、同じ課題に向き合い、議論を深掘りし、最適解を模索するのは、同プログラムの神髄である と理解した。海は一つに繋がり、あらゆる海の自然現象や事柄は連環性をもつ。故に、海に関する法秩序の形成や課題の解決には、自然科学・社会科学・工学系を問わず、 いろいろな科学的諸見を融合化させ、複眼的、総合・体系的、学際的にアプローチすることが求められる。翻れば、 縦割りにされたサイエンスの一領域の知見だけでは課題の最適解に辿り着くことは難しいという意味合いがプログラムに込められて いるといえる。

  繰り返しになるが、「海洋総合プログラム」は学門領域のボーダーを越えて、それぞれの専門的知見を出し合い、その共有と融合を図り、 時に化学的反応を起こさせながら、課題解決のため方程式を組み立て、最適解を模索するというアプローチを体験させること、また できうれば院生個人にそんなアプローチを身に付けさせ、海洋関連課題の解決能力の向上を図ろうという人材育成プログラムであると 理解した。かくして、海洋法・海事プログラムを「海洋総合プログラム」と捉え意訳した所以である。 1974年当時日本のアカデミー領域ではほとんど存在しなかったと思料されるアプローチでありプログラムであった。



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