水産室に勤務した4年間のうちの最初の2年半(1980.3~82.12)に担当したプロジェクトは、いずれもイスラム文化圏に属する
国々を対象とするものであった。非イスラム圏であった唯一のプロジェクトは、西太平洋ミクロネシア地域のパラオの「カツオ一本釣り
訓練プロジェクト」であった。時を経るにつれて思うことがあった。当時水産室ではなおも新人であった私には、イスラム圏諸国の案件が
どうも意図的に割り振られているのではないかと思うようになった。ミクロネシアの例外がなかった訳ではないが、水産室に配属
されて以来担当していた案件は、イスラム文化圏のチュニジアの「マディア漁業訓練センター」、アラブ首長国連邦の「水産
増養殖センター」、そしてインドネシアの「沿岸養殖センター」などのプロジェクトであった。
イスラム文化圏諸国の案件ばかりを担当すると、他地域の異文化や人々と向き合う機会が少なくなり、
国際理解が偏ったものになるのではないかと、全く独善的な解釈の下にそのような懸念を抱いていた。日頃からそんな思いが
頭の片隅に沈積していたのであろう。中南米地域などのプロジェクトも担当したくて、ある日水産室で机を並べる周りの同僚や
先輩職員たちに聞こえるように、「イスラム諸国の案件がやたらと目立つ。誰か他の地域の案件と交換してもらえませんか」と、
彼らにバーター取引を求める「独り言」を吐露した。1982年中頃のことであった。それは冗談というよりは、本気度の方が勝っていた
独り言の発信であった。
かくして、ある先輩から譲ってもらったプロジェクトの一つは、中米ホンジュラスで実施途上にあった「沿岸水産資源調査」であった。
JICAに奉職して初めて太平洋を越え、中米に業務出張できる可能性があるということで大いに喜んだ。それにまた、生まれて初めて
カリブ海に面する海辺に立つことができるというので二度有頂天になって喜んだ。だが、太平洋越えやカリブ海でのビーチ散策のことで
有頂天になる姿を見せるのは余りにも恥ずかしかった。そこで、周りにに悟られないように席を立ってトイレに向かった。
私的にはその後、仕事への情熱や士気も心の満足度も格段と上昇して行った。先ずその水産資源調査のことから触れたい。
ホンジュラスでの「カリブ海沿岸水産資源開発調査」は水産室でも珍しいプロジェクトであった。自身にとっても
これまで担当経験のないカテゴリーのプロジェクトであった。首都テグシガルパは中米地峡にある同国の山あいにあるが、その北西部
のカリブ海にほど近いところに同国第二の都市サンペドロ・スーラがある。そこから北50kmほどの地にプエルト・コルテスという
カリブ海に面するかなり大きな港町がある。そこに水産資源調査を行なうための拠点が設営されていた。そこでリーダー、漁労、
機関の3名の専門家が活動していた。私は当該案件の「作業監理調査団」の一員として、
資源調査の現況を把握し課題を協議し、その円滑な実施を促進するというミッションをもって現地へ赴いた。1983年2月初めの頃で、日本では
真冬であったが、亜熱帯地域に属する現地は暖かくて快適であった。
水産資源調査の地理的範囲としては、プエルト・コルテス港から100km余り東方にあるカリブ海沿岸の漁師町ラ・セイバと、そこから
もう少し東にあるトルヒーヨという漁村までの間にある地先沿岸水域であった。10トンクラスの新造小型調査船を日本から持ち込ん
での調査であった。だが、前任の担当者から聞いた話によると、プエルト・コルテス港で貨物船から同調査船を陸揚げ中に、事もあろうに落下
の憂き目に遭い海中に没してしまったという。即刻に保険求償がなされ再び調査船が建造され送り込まれたため、調査はかなり遅れて着手されたという。そんなことが
私が担当する前に起こっていた。魚探、測深器、レーダー、その他引き網、刺し網
などの漁具をフル装備していた。プエルト・コルテス港を拠点にして、沿岸水産資源の賦存状況全般、特に商業的開発
の可能性のある有望な浮き魚類とその賦存推定量などを定量的・定性的に探るために、地先沖合いを一定間隔で曳網などを縦横に引き回しながら、
試験操業と分析調査に取り組んでいた。
二年近くにわたる当該調査の結果、やはりサメ類が圧倒的な優越種であった。それ以外のハタ、スズキなどの市場価値の高い魚類や
カツオ・マグロの高度回遊性魚類の漁獲量は少なかった。但し、ロブスターやエビなどの商業価値の髙い甲殻類については、
調査の対象外であった。甲殻類は米国系大資本による独占的捕獲の対象としていたので、ホンジュラス側としては調査対象とは
したくなかったようである。調査結果としては、一般漁民の期待に
応えることができず、多獲性魚種として目ぼしいものはサメ類くらいなものであった。練り製品の原料やフィレの干物を製造できる
可能性はあった。鮫の捕獲を大々的に推奨することも考えられた。だが、その集中的な漁獲によって乱獲を招きかねないリスクもあった。そのため、それを強く推奨することは抑制的にならざるをえなかった。
調査結果は帰国後、JICAの名前で正式に報告書に取りまとめ、スペイン語に翻訳した。その上で、ホンジュラスの水産局長を日本に
招聘し、レポートの内容を説明した。また、調査過程で生まれた副産物である、ラセイバとトルヒーリョにかけてのかなり詳細な沿岸深浅図
(主に内水・領海内の海底地形図) が作成された。生の水深データと共に、同国の貴重な国家財産として同局長に直接引き渡した。
余談であるが、ホンジュラスの東側にて国境を接する国はニカラグアである。1979年に「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」という反政府
武装勢力が勝利を収め革命政権が成立した。当時革命政権を率いていたのがダニエル・オルテガであった。
これに対し、親米路線派である「コントラ・グループ」と称される反革命政府軍(事実上、傭兵からなる民兵組織・ミリシアで、通称
「コントラ」といわれた)が、FSLN政権軍と激しく対峙し、国内でゲリラ戦を繰り広げていた。米国はコントラを支持する
立場を取っていた。コントラ軍はニカラグア・ホンジュラス国境地域に身をひそめたり、時にホンジュラス側へ越境しながら、
コントラ軍自身の安全を確保していた。そして、コントラを支援する立場から、米国はホンジュラスに軍事顧問団などを駐留させて
いた。調査団はそんな時代に同国に足を踏み入れた。我々が投宿したサンペドロ・スーラの民間ホテルには、そんな米国顧問団が
滞在していた(もっともその団員米兵の姿は目にしなかった)。
その後、1988年3月になって、サンディニスタ解放戦線政権軍とコントラ軍は、コスタリカの仲介による「和平協定」の成立によって
停戦合意するに至った。そして、政権軍の縮小やコントラ軍の武装解除となり、長年の内戦に終止符が打たれた。軍部隊を離脱したり、武装解除
となった兵士はニカラグアの地方の奥深い山中に農牧民として移住した者も多いといわれる。
1990年2月には、国際監視の下で国政選挙が実施された。リベラル派の野党連合を率いるビオレータ・チャモロが、ダニエル・オルテガ
が率いるFSLN政権側を破って、大統領に就任することになった。オルテガ大統領らの元政権指導者は下野し、チャモロが親米的リベラル派
の政権を担った。
10年以上も親米リベラル派政権時代が続いたが、時の国政選挙で、FSLNを率いるダニエル・オルテガが再び大統領として政権の
座に返り咲くことになった。私が2007年にニカラグアのJICA事務所に赴任した当時は、彼が政権の座に返り咲いて間もない頃であった。
その後2年間の赴任中に、中央省庁や警察庁などの大臣/長官・局長・課長クラスは勿論のこと、一般官吏に至るまで、それまでのリベラル派官吏から
FSLN所属の官吏へと、見事なまでに取って代わられて行った。
さて、プエルト・コルテス港から首都への帰途のこと、その西方10kmにあるオモアというカリブ海沿岸の村に遺されたスペイン植民地統治
時代の遺蹟「サン・フェルナンド要塞」に立ち寄った。スペインが新大陸に築き遺した要塞なるものにこの時
生まれて初めて足を踏み入れる機会をもった。小さな歴史的遺構ではあったが、征服者コンキスタドールたちの痕跡を目の当たりにして、
暫し感慨の思いで散策した。その後オモアから南下し首都に向かった。その通りすがりのこと、グアテマラとの国境に近い「コパン・ルイナス」というマヤ文明の
遺跡に立ち寄った。ジャングルにかつて深く埋もれていたであろうマヤ文明の遺構に生まれて初めて触れることができた。
「コパン遺蹟」はスペインの植民地支配後に終焉を迎えたマヤ文明の証しであり、「サン・フェルナンド要塞」はその文明終焉の
後にスペイン征服者が築造し統治したことの証しの欠片である。
首都テグシガルパに戻った後、台湾が協力する水産養殖プロジェクトを視察するため、今度は首都から60kmほどの距離にある太平洋沿岸を
目指して南下した。サン・ロレンソという、メキシコからパナマまで中米地峡を縦断する国際幹線道路のいわゆる「パン・アメリカン・
ハイウェイ」沿いにある村へ赴いた。プロジェクトはその村から少し南の、フォンセカ湾最奥のマングローブに覆われた岸沿いにあった。フォンセカ湾は
奥行きの深い大きな湾で、エルサルバドル、
ホンジュラス、ニカラグアの三ヶ国が同湾に面し、3本の国境線で分割される国際的な内水である。25年後にその湾口に向けて南側から
突き出した小半島の先端に所在するニカラグアのポトシという漁村から、フォンセカ湾最奥に位置するサン・ロレンソ辺りに連なる
山々を遠望する機会があった。当時の台湾プロジェクトの視察のことを感慨深く思い出した。
さて、ホンジュラスの水産資源調査プロジェクトのバーター取り引きの他に、もう一人の先輩職員が譲ってくれたのが南米
アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」であった。アルゼンチン人はプライドがひと際高く、この案件の形成や成立に漕ぎ着けるのは難しいとの一言と
共に、ファイルを受け取った。そのプロジェクトとの関わりが私の運命を大きく変えることになろうとは、人生とは本当に分からない
ものである。元を正せば、たった一言の吐露がもたらしたことであった。その後の運命のいたずらを感謝の念をもって今でも思い
起こす。第三の素晴らしい青春時代をもたらしてくれたプロジェクトでもあった。そのエピソードは次節に譲ることにしたい。
休題閑話。もう一つの異種であったプロジェクトに触れたい。日本政府の戦時賠償の一環として、カツオ一本釣り漁船
がパラオに供与された。供与後何年を経た頃のことか不詳であるが、一つの水産技術協力が実施されることになった。
そのミッションを平たく言えば、パラオ人だけでそのカツオ漁船を操り、商業的採算性をとることができるのか、それを実証して見せるよう日本側に求められた。
私は、早期退職予することになった室長代理から急きょその案件を引き継いだ。プロジェクトサイトは西太平洋のミクロネシア地域にある
パラオの主要都市コロールにあった。
かつて日本は、国際連盟から、パラオを含むミクロネシア(南洋群島)の委任統治が認められていた。1922年には同群島全体を
管轄する「南洋庁」の本庁がそのコロールに設置されていた。第二次大戦における日本の敗戦によって、1947年に国連信託統治領として
米国の管理下に置かれた。1981年になってパラオ共和国自治政府が発足し、その後紆余曲折の経緯を経て、1994年10月に国連信託
統治を終了し、パラオ共和国として独立した。現地訪問した1980年11月当時にあっては、まだサイパン島に信託統治の行政府が置かれ、
そこにミクロネシア地域の漁業政策を司る水産局があった。先ず同行政府の水産局にラモン局長を訪ね軽く打ち合わせした後、
パラオに向かった。パラオはいずれ独立するとしても、米国といかなる関係をもち続けるのか、それを巡って政治的に騒々しかった。
そんな中、日本政府はパラオに対して戦時賠償の意味合いをもつ経済支援として、カツオ一本釣り漁船を無償供与し、米国からは歓迎を受けていた。
ところで、「カツオ一本釣り漁業開発プロジェクト」に関する合意文書を読んで背筋に緊張感が走った。カツオ漁船操業の経験の
乏しいパラオの人々にとっては、漁船を使いこなしてカツオを船艙一杯に捕獲し、地元の米国系缶詰会社などに卸して、
経済的収益を上げ操業の収支バランスをとることはなかなか至難の業であった。そこで、日本に対して、パラオ人によるカツオ操業における
商業的レベルでの採算性を実証するよう求められた。JICAと取り交わした合意文書には、カツオ操業を指導する専門家
らを派遣しそれを実証するように明文規定をもって取り極められていたことは真に驚きであった。「漁業開発」というプロジェクト名ではあるが、事実上「カツオ一本釣り操業訓練」
と採算性の実証を目途にするこのプロジェクトの担当を突如室長代理から仰せつかった。これがイスラム文化圏以外の国のプロジェクト
を担当した初めてのケースであった。
プロジェクトリーダー、漁撈、機関の3名の長期専門家が指導に当たった。カツオ一本釣り操業には、生き餌としてカタクチイワシの稚魚
が不可欠であった。プロジェクトは、先ずその採捕と蓄養から始まった。カタクチイワシは極めて神経質な魚で、その稚魚の
採捕後すぐに漁船内の狭い生け簀内で泳がせて出漁したりすると、すぐに弱ってしまい多くが斃死してしまう。コロールに
近いロックアイランドは、こんもりと樹林に覆われた小さな島嶼が浮かぶ海洋性の大景勝地であった。そのロックアイランドの
静穏海域の一角に設置した浮き生け簀でイワシを蓄養していた。そして、イワシの興奮を徐々に抑え馴致させ元気をつけさせていた。
長い大竿に釣り糸をセットし、その先に大きな鉤針をつける。甲板の舷側に立ち、漁船の周囲に蝟集して飛び跳ねるカツオの
群れに向かってその鉤針を投下する。次の瞬間にはカツオを鉤針に引っ掛けて甲板へと豪快に釣り上げる。カツオを逸散させないために、生きの良いカタクチ
イワシを船内の生け簀からたも網ですくい船の周囲に撒く。さらに、船側から水のシャワーを海面に浴びせ、
イワシの乱舞と錯覚させるように仕掛ける。かくして、カツオを船の周りに常に寄り付かせながらカツオと豪快に格闘する。
カツオ魚群を探索し発見することも、また鉤針でスピーディーに引っ掛けて船上へ釣り上げるにはかなりの熟練を要する。
若いパラオ人乗組員を集め、操業における技能、規律やチームワークを担保するために、地元の酋長や長老らによる彼らへの
指導を仰いだり、威厳を借りることも時に必要となる。操業のノウハウを修得してもらうだけでなく、狭い船上での社会生活を営む上で心得るべきいろいろな
約束事がある。日本人とは社会文化的な価値観が異なるパラオ人の若者に、船上での決まり事や生活習慣などを習得してもらうには、それなりの根気のいる
ことである。パラオ人青年に給与が支払われると、時を経ずしてビールの泡に消えてしまいお金に困窮することもあるという。
パラオ人乗組員がベクトルを合わせ船上でワンチームとなって操業に立ち向かえることが何よりも肝要であった。
幾多の社会、文化、運営上のハードルを乗り越え、パラオ人乗組員に操業上の熟練度を上げてもらうというプロジェクトのミッションは
シンプルで明白ではあるが、専門家にとってもその達成は真剣勝負の闘いであった。単なる操業訓練だけならともかく、
パラオ人乗組員だけでその商業的収支バランスをとりうることを実証できるほどの月平均漁獲量を上げるには相当の労苦が付きまとった。
水産庁の遠洋水産研究所の遠洋資源室長を団長とし、カツオ漁業のベテラン漁労長を団員とする計画打ち合わせチームは、
コロールからの帰途再度サイパンの信託統治行政府水産局に立ち寄り、操業訓練の現況や課題、今後の見通しなどを報告した。同じく、在グアムのアガナの
日本総領事館にも同様の報告を行なった。1980年11月上旬の頃であった。JICAの数多の技術協力プロジェクトのなかでも、
「商業的採算性を実証することを目的とした技術協力を行なう」というのは、間違いなく後にも先にもこれが唯一のもの、
例外中の例外であったに違いない。
日本人専門家の直接的な指導の下で操業の採算可能性を実証することについては成就することができたが、その後、パラオ人自身
の手で如何様にカツオ操業を続け、収支バランスのとれた漁業経営を続けてきたであろうか。特に漁船のエンジンの良好な保守点検・修理や時にオーバー
ホールを行ない機関を長持ちさせることが操業や経営上の要である。その後の歩みについてはまともなフォローアップをすることなく
忸怩たる思いである。せめてサイパンの水産局長に近況を尋ねることをしてこなかったことを自省する。
その後時を経て200海里排他的経済水域(EEZ)レジームが南洋にも一般的に設定されることとなって行った。パラオ共和国の200海里EEZへ
日本、韓国、台湾などの外国漁船の入漁を呼び込み、どの程度の外貨収入を得てきたであろうか。
外国のカツオ漁船からのEEZへの入漁料の徴収によって、パラオの国庫財政はかなり潤されてきたのであろうか。あるいは、
自らのカツオ操業もさらに伸長してきたであろうか。あるいはまた、パラオ人青年は、同じ南洋のキリバス国の青年たちのように
外国船籍のカツオ漁船に乗り込み、雇用機会と外貨収入の増進と生計向上を図り今日に至っているのであろうか。
200EEZ時代になって、パラオにおいても、自国民が自ら漁獲しなくとも、他国にカツオ・マグロ操業を許可することで、
国家収入を稼ぎ、もって海からの恩恵を受けることが可能な時代になった。1994年11月に発効した国連海洋法条約がそれを保証してきた。
カツオ・マグロなどの高度回遊性魚種の水産資源が乏しければ、その恩恵は少なくならざるをえない。だが、もはや先進漁業諸国による
独占的な水産資源利用、略奪的漁業、乱獲を懸念させられるようなことはなくなった。これまでの広大な公海での「漁業自由の原則」はかなり
制限的なものとなり、翻って今日では漁業発展途上国は200海里EEZレジームの下で、過去には考えられなかったような大きな恩恵を享受できるようになった。
「海の憲法」の成立による海の国際ルールの大変革によってもたらされたそのような新しく生まれた現実を観ることができる。国際海洋
法を学んできた一学徒としては、実に感慨深いものがある。
さて、パラオから帰国後、先輩から譲り受けたもう一つのアルゼンチン・プロジェクトと真剣に向き合った。まずはアルゼンチンのプライドの高い当該
プロジェクト関係者に日本の水産業や漁業教育の現状を理解してもらうため、日本に招請することから取り組み始めた。
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