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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第3節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ


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     第7章・目次
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する [付属資料]JICA水産室時代における海外出張略履歴
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3-1節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
      第3-2節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その1)
      第4-2節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む




  ところで、ここからは回転ドアのように話題を次々と回したい。1980年代初め、インターネットもファックスもない時代であった当時、東京・チュニジア間の通信運搬手段は国際航空 郵便だけであった。国際宅急便のフェデックスも当時利用できたという記憶がない。緊急の場合は、国際電話か国際電報による 通信だけが頼りであった。当然、電話も電報も物品は送れなかった。現在の2020年とは全く比較にならない通信事情があった。郵便では 往復に2週間以上もかかり、今からすれば実にのんびりとしたアナログ時代であった。それ故に、当時ならではの予算がプロジェクト に組み込まれていた。毎年一回、日本側関係者がプロジェクトサイトを訪問する予算が支弁された。専門家、カウンターパートの他、 両国のプロジェクト関係者が膝を突き合わせ、プロジェクトの現況や課題、評価、今後の実施計画、課題への対応策などを協議したりして、 プロジェクト情報を共有しながら全関係者のベクトルを合わせて前に進むためであった。当時としては、関係者が一堂に会して 情報共有と意思疎通を図ることは、プロジェクトの円滑な運営にとって大変意義深いことであった。インターネット会議が普及する 現代では、こんな「贅沢な」現地訪問は許されないかもしれない。

  私が担当者として初めてチュニジアへ調査団を派遣したのは1981年3月のことで、その「打ち合わせ調査団」を組織するに当たり、 水産庁国際協力室から団長の推薦を受けたのが、水産庁所轄の「水産工学研究所」の研究室長であった森敬四郎氏であった。 森氏は温厚そのもので、知性に溢れ、懐の深い包容力のある 紳士であった。英国育ちの本物の紳士のような立ち振る舞いで、まさに「ジェントルマン」というニックネームを献上したいくらいであった。 森氏との出会いと、チュニジアでの共通体験がなければ、その後の私の人生はまるで変わったものになっていたに違いない。 森氏を団長にしてチュニジアへの初出張をこなした後、さらに2回も同じプロジェクトのために、団長として毎年御足労をいただいた。 そして、森さんと私は、公私共々色んな場面で波長が重なり合い、いつしか歯車がしっかりと噛み合うようになり、互いの距離を縮めながら 気心を知り合う間柄になって行った。

  森さんとは、後に、アルゼンチンでの国立漁業学校プロジェクトにリーダーとして赴任していただいた。アルゼンチンから帰国後も、 いろいろ行き来することになり、私の人生はさらに豊かなものとなった。初めてのチュニジア出張当時には想像もつかなかったが、 森さんとはその後生涯にわたりお付き合いをいただき、有意義な人生を過ごすことができた。チュニジア初出張での出会いが その起点となったことを、ずっと後で認識することになった。強いて言えば、私的には、森さんは「父親」とも思える存在であった。

  余談が続くが、当時チュニジアに渡航する場合、ヨーロッパのいずれかの都市で一泊することが許された。というのは、 チュニジアはアフリカ大陸に位置するが、同じヨーロッパ圏内にあると見なされ、ヨーロッパのどこを経由地しても、またそこで一泊しても しなくても、正規料金を払う乗客には、航空賃は同額らしかった。ヨーロッパの都市を垣間見る絶好の機会であった。 たとえ数時間の滞在のため駆け足巡りとなっても、一泊してじっくり街を覗き込むにしても、往路・復路それぞれに経由してみたい 都市を一つ、あるいは時に二つを思い巡らし、心の準備を整えるのが楽しみであった。

  ヨーロッパの経由地での宿泊先にチェックイン後すぐさま飛び出して団員らと共に、その街を散策することは最高に 楽しみなことであった。異国の街中に身を置き、行き交う人々や通りすがりの自然風景を目の辺りにし、何かを感じ、脳へ刺激を 与えることにつながる。社会・歴史・文化的な好奇心を全開にして、皆でお上りさんになってそぞろ歩きするのは楽しい。 ましてや、初めて訪れる地であれば、なおさら見るもの聞くものが新鮮で、自ずとテンションが上がる。他団員の希望に配慮しながら、 日本・チュニジア3回の往復で、ヨーロッパの経由地として6都市以上に足を踏み入れ、昼夜の街中に身を置き、社会・文化的 な理解と経験値を高めた。とはいえ、何十年もの過去のことであり、その後に別用で出掛けた出張や個人旅行の記憶がないまぜになり、 何時のことであったかはっきりしないことが多くなってしまった。

  チュニジアへの初めての往路ではロンドンを経由地に選んだ。最も感涙したのはテムズ川であった。世界にかつて君臨した大英帝国、その首都 ロンドンの市街を流れるテムズ川の水は世界に通ずるといわせしめた、そのテムズ川である。団員皆で完全にお上りさんになって、 寸暇を惜しんで、陽が落ちるまで、一目だけでも見ようと駆けずり回った。バッキンガム宮殿、ビッグベンを擁する国会議事堂、 ロンドン・ブリッジなど、時にロンドン名物のタクシーにも乗車してみた。当時、英国中央銀行の地下 に眠るという、「トラファルガーの海戦」で英国を大勝利に導いたネルソン提督の柩にも出会ったと、曖昧ながら記憶する。グリニッジ の「カティ・サーク号」や「国立海洋博物館」へ足を伸ばす余裕などはなかった。

  ある時はパリを経由した。ドゴール空港からバスで市街地のホテルへ移動した。バスがパリ市街中心地に入り、先ずは車窓からその街風景 を眺めることとなった。その街路風景の華やかさ煌びやかさに、息するのも忘れたように見惚れた。日本の都会風景とはまるで異なる別世界に 舞い下りたようで、「華のパリ」風景に鮮烈な感動を覚えた。今でもその風景に衝撃を受けたことをはっきりと覚えている。

  パリでも、団員揃ってすっかりお上りさんになってしまった。凱旋門からシャンゼリゼ通りをそぞろ歩きをして、コンコルド広場辺りまで下った。 陽が落ちて足元が暗い中、落ち葉で足を取られ滑り転げないように気を付けながら歩いた。モンマルトルの丘にも上り、 画家たちが向き合うキャンバスにそっと遠慮がちに覗き込んだりもした。お上りさんになるのも決して悪くはなかった。はやり、 パリではこれを見たい、あそこに行きたいと、初めてのパリであれば、ガイドブックに載るような代表的風景を見たいというのも 止む得まい。とにもかくにも、パリの洗練された街並みの美しさ華やかさに魅了され、日本の都市風景との余りの落差に衝撃を受けた。 私的には、パリの市街風景に、日本の都市には全く感じられない「美」を観た。

  時に、オランダのアムステルダムを経由した。空港から路線電車で市街地にある中央駅に降り立ち、最初に出会った風景の異趣 に仰天した。私的には、まるでお伽の国に足を踏み入れたような錯覚に襲われた。アムステルダムはまさに運河の都市である。 縦横かつ扇型状に伸びる運河のクルージングを楽しんだ後、運河沿いにそぞろ歩きをした。そして、「飾り窓の女」の館が運河沿い の小道にずらりと軒を連ねる風景に巡り巡って出くわした。女子高校生らしい一団が、その館通りを先生の引率の下、悪びれる風 もなく飾り窓の中の女性を眺めながらわいわいとくったくもなく「社会科見学」をしていた。通りすがりにそんな場面をたまたま目にした 私は、余りの社会文化的ギャップに言葉を失ってしまった。 歩き疲れて運河に架かる橋の袂にあったバールに立ち寄り、ビールジョッキを傾けながら一休みし、東京からのフライトの疲れを暫し癒し、 英気を養った。翌日にチュニスへと向かった。中央駅からそう遠くないところに「国立海洋博物館」があったことをずっと後で知った。 その訪問を成し遂げたのは25年ほど後になってからである。

  ある時はフランクフルト経由もあった。初めてのドイツであった。ドイツは他の欧州諸国とは異趣の風情を漂わせていた。路線電車で 市街中心部に出て、ゲーテ博物館などを訪ねるのが時間的にみて精一杯であった。時にはローマ経由を選び、お上りさんになって、 半日市内観光ツアーバスに便乗し、車窓からコロッセオなどの古代ローマ遺跡などを垣間見た。通りすがりに一瞬でも本物を目にして、瞼の シャッターを開閉して、その奥のスクリーンに焼き付けることが、私的には大事であった。通りすがりの瞬間的焼き付けであろうとも、 その場に居合わせ見て感じることが幸福度アップに繋がると信じていた。何時しか舞い戻ってじっくり散策する機会もありなんと期待する。

  3度目のチュニジア出張の折、ようやくあることに気付いた。経由地でお上りさんになることは善しとして、経由地で何か海や船と 関わりのあるものを訪ねることを思い付いた。何か海・船にまつわる歴史・文化的施設や史跡を見たい、見てやろうという意欲が 芽生えた。チュニジア渡航も最後となれば、経由地とその訪ねたい施設につき、しっかりとターゲットを絞った。デンマークの コペンハーゲンを帰途の経由地に選んだ。そして、目的意識をもってまっしぐらに出向いたのは、その郊外の町ロスキレにある「バイ キング博物館」であった。

  他団員に納得してもらって、市内のホテルから割り勘でタクシーに乗り込みロスキレに向かった。インドネシアに次いで二番目の 海洋博物館の見学となった。埋没していた海底から発掘されたバイキング船の外板を鉄製骨組に丁寧に張り合わせ、 3艘ほど復元されていた。初めてみるバイキング船の実物に皆が魅了された。タクシーで団員を引き回し、一人100ドルも費やし 高くついたが、それだけの価値は十分あったと納得してもらい、内心ほっとした。これを経験値にして、時間の合間 を縫い寸暇を惜しんで何か見学をするのであれば、海や船と関わりをもつ歴史・文化施設などに立ち寄ってみることにした。 見学するのにも時間とエネルギーが必要である。当時はまだまだエネルギッシュであり、時間の合間をくぐり抜けて、動き回るには 十分若い歳頃であった。好奇心が旺盛な団員との組み合わせにも恵まれたことが幸いし、皆して楽しみながら見聞を広めることができた。

  異文化に溢れる街の風景を、通りすがりに見るにせよ、寸暇を惜しんで目的地の何かを真剣に見て回るにせよ、それは海外出張 での楽しみの一つであった。初めての街なら、その街に体と目を慣らすために、そぞろ歩きしながら、時にはベンチに腰掛け、往く 人々を眺め、鳥のさえずりを聴いたするのも、楽しみと潤いをもたらしてくれる。私的には、寸暇を惜しんで貪欲に街をあちこち散策し、 何か絵になる被写体を探し回るのが自己流の楽しみ方であった。ヨーロッパのあちこちの経由地での探索は、総じて人生を彩り濃いもの、 豊かなものにしてくれた。

  さて、チュニジアではプロジェクトサイトだけでなく、水産事情を知るためにいくつかの地方都市の漁業基地をも訪問した。 その道中で思いがけず、古代ローマ時代の遺跡風景に出くわしたりもした。プロジェクトのあったマディアから南下すると チュニジア第二の都市で大漁港を擁するスファックスがある。その時に少し寄り道をして、スファックスから少し内陸部に入った 片田舎の村のマトマタに立ち寄った。マトマタはサハラ砂漠へ通じるほんの入り口にあって、ナツメ椰子などの樹木が生い茂る緑豊かな オアシスである。砂漠ばかりの世界から突如として、人間が暮らす森の世界が現われた。これが書物に言うオアシスかと、自身の目を 通してオアシスの具体的イメージを育むことができた。マトマタには北アフリカ地域に多い先住民のベルベル人が住む。 地下に直径・深さが10~20メートルほどの竪穴を掘り、その穴の側面に横穴を掘り住居にしている。

  チュニジア国内は古代ローマ時代の遺跡遺物の宝庫である。エルジェムという内陸部の地方都市には、古代ローマ時代の大きな コロッセオが遺されている。現在ローマ市内に遺される古代コロッセオと比肩できるもので、世界三大コロッセオの一つとされる。 チュニス近郊では、古代ローマ時代にチュニスへ水道水を引き込むためにレンガで築造された壮大な「水道橋」が何キロにもわたり 天空を貫く姿があった。プロジェクトサイトのマディアからチュニスへ戻る通りすがりに、その歴史的建造物に暫し足を止めた。 それだけのことであるが、チュニジアの歴史文化への好奇心を今後に繫ぐきっかけを紡ぐことができた。   都市にはたいていメディナと呼ばれる城壁に囲まれた旧市街があり、その一角にカスバがある。首都チュニスのメディナに入ると 近代的都市風景から一変してイスラムの文化の香りが充満している。異国情緒な路地裏的風景で圧倒される。狭い路地が迷路のように入り 組んでおり、出口がどちらの方向にあるのか、角を曲がるたびに方向感覚は無くなる。初めて訪れ一人迷い込んでいれば、不安に襲われ ながら彷徨い続けたことであろう。

  地方の田舎道をたどると、たいていある田園風景に出くわす。見渡す限り、濃緑色のカーペットの様なオリーブ畑が広がり、 ロバが引く荷車とそれを操る老農夫や幼い少年らと行き交ったりする。牧歌的風景に何か癒されるものを感じる。時間も止まっている かのようにも感じられる。もう一つのチュニジア風景に出会った。チュニスの北の郊外に有名なカルタゴの遺蹟がある。その近く で、これぞチュニジアを代表する彩りを見た。住宅の外壁はすべて真っ白に塗られている。そんな白亜の住宅に、太陽の明るい光が さんさんと降り注ぐ。どの家の窓の外枠にも扉にも、決まって鮮やかなブルーカラーが塗られている。遠くには二つのブルーが融合する。 地中海のブルーオーシャンとその天空のブルースカイである。窓枠と扉のブルーは地元ではチュニジアン・ブルーと呼ばれる。

  チュニジアに三度足を踏み入れ、時に寄り道をして、また時に大回りをして、いろいろな自然と社会的風景に触れた。 そのような体験は無駄のように見えるかもしれないが、実はそうでない。むしろ、プロジェクトへの愛着や熱意を高める「ビタミン補強剤」 となった。プロジェクトに取り組むためのエネルギーとなった。知的好奇心を全開にしながら、チュニジアの歴史、社会、文化などに理解 を深めれば、プロジェクトもまた愛おしくなり、真剣に向き合うエネルギーをくれた。

  さて、寄り道で見た風景の中で、最も興味をそそられた歴史文化的風景は、カルタゴ遺蹟の寸景であった。カルタゴは、現在のレバノン 辺りで繁栄した古代の海洋民族であるフェニキア人によって創建された植民都市であった。それには特別に興味をもっていた。 現地に残される遺跡のほとんどは、古代ローマ時代の遺跡や廃墟である。しかし、それだけでも自身の目で垣間見ることは意義深かった。 最初のチュニジア訪問時に、たまたま週末に立ち寄ることができた。カルタゴは、チュニス郊外の地中海に面する、大統領官邸近くの丘にあった。 カルタゴ時代に築造されたという港や造船所の址があるらしいが、後で書物で知った。それっきり見る機会はなく、ずっと悔いが残っている。 垣間見たのは古代ローマ時代の大浴場の址とその背景に広がる地中海だけであった。

  フェニキア人は紀元前2000年頃、現在のレバノン辺りの地中海沿いの狭い土地に限定されながら居住していた。熟練した船乗りであった 民は、地中海西方に目を向け、船を操り交易活動を活発に行っていた。そして、北アフリカ沿岸、スペイン南部沿岸、その他シチリア島 などの島嶼に植民地を建設して行った。そして、紀元前814年にカルタゴの地に植民地を創建した。古代ローマの建設よりも60年ほど 早いとされる。

  紀元前3世紀中頃から前2世紀前半まで3回にわたり、古代カルタゴは西地中海の覇権を巡ってローマと戦争を繰り広げた。いわゆる 「ポエニ戦争」である。ポエニとは、ローマ人がカルタゴ人のことをそう呼んだ。カルタゴは、現チュニジアにあったフェニキア人の 植民市が発展した商業国家であり、最盛期には50万人以上の人口を擁する大都市であったと言われる。

  さて、第一回ポエニ戦争(前264-前241年)では、ローマが勝利し、その結果ローマはシチリア島を最終的に初めてその属州とした。 第二回ポエニ戦争(前218年~前201年)で、イベリア半島の南岸のカルタヘナに進出していたカルタゴ側のハンニバル将軍が、 スペインから象部隊も引き連れ、果敢にピレネー山脈を越え、さらにはアルプス山脈を越えてローマに迫った。前216年に はカンネーの戦いで勝利した。だがしかし、ローマを直接攻撃するには至らなかった。後に反撃に転じたローマのスキピオ将軍が、 北アフリカに上陸し、前202年にカルタゴ近郊のザマの戦いにおいて、カルタゴ軍を撃破し敗北させた。

  第三回ポエニ戦争(前149年~前146年)では、ローマはカルタゴを完全に滅亡させた。カルタゴおよびその全領土を徹底的に破壊、 壊滅させ、属州アフリカとして支配した。この戦いで、カルタゴは滅亡し、総人口50万人のうち生き残った55,000人のカルタゴ人は 奴隷として売られたという。

  カルタゴの都城は跡形もなくなった。古代都市カルタゴの廃墟はあるようで無く、荒れ果てて土として地中に埋もれ、時に置き 去りにされすっかり死んでいる。現在チュニス郊外に跡を留めるが、浴場跡も含めそのほとんどは古代ローマ時代の遺跡である。 ローマはこの戦争に勝利し、西地中海の覇権とともに、多くの属州を獲得し、大帝国への道を歩み始めた。カルタゴがローマに 勝利していれば「カルタゴ大帝国」となっていたかもしれない。なお、紀元後698年には、ローマの植民市カルタゴは、アラブによって 破壊され、イスラムの世界へと移り変わって行った。チュニス市内の「国立バルドー博物館」には、古代ローマ時代の色彩タイルで描かれた モザイク画のコレクションが展示される。このチュニジア出張を機会に、古代フェニキア、古代ローマ、さらには中世のベネチア、 ジェノバなどの地中海海洋都市国家、ビザンツ帝国、オスマン帝国などによる地中海を巡る対立や交易などに少しずつ関心が向く ようになった。出張はいつも知的興奮を掻き立て、学びへの意欲を高めるきっかけをくれた。


途上国への水産協力によって海へのさらなる回帰を果たす/、漁業協力はさらに海への回帰を決定づけた。誘起する・具現化する

室長にはカルロス・ガルデルのタンゴ音楽カセットプレゼント。 この体験なくして、次の人事異動先となったアルゼンチンでのプロジェクト運営の成功はなかった。このプロジェクトはその後の キャリア形成のバックボーンにもなったもの。多くのことをこのプロジェクトから学び、他山の石とした。

・ FAOの水産局に勤めて世界中のプロジェクトを運営しても大差はなかろう。途上国からの要請を対して分析し、予算を組み、確保し、専門家を リクルートして、活動してもらう。1-3年?どんな活動をしていかなる成果を揚げるか、その計画を先方政府、要請機関などと 協議、協定文書を交換し、実行に移す。成果の評価基準を設定、数量的・定性的に。途上でいろいろ難問障害など湧き上がる。 JICAと何も異ならない。遜色ない体験を4年もJICAで、しかも成長期でバブルのはじける1990年まで年俸は遜色ない。 だから、UN・国際公務員への奉職希望はかすれつつあった。

  余談だが、水産室で、アジア、大洋州、アフリカ、中南米の異文化に足を踏み入れた。だが、アフリカ大陸の赤道を35年の人生で超えることは なかった。サントメプリンシペの帰途、本土のガボンに立ち寄った時数kmほど越えたかも知れない。ゆえに、サハラ以南のアフリカ大陸 を知らず、JICAを「卒業」してしまった、いわば偏向のあるJICAマンとなった。


略史
・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 評価調査団
  技協、JICA、業務調整、現地調査:1981.3.5-3.20.
  プロジェクトの延長期間につきフリーハンド(0~1.5年間)をもって評価・交渉、結果1.5年間延長

・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 計画打ち合わせチーム
  技協、JICA、業務調整、現地調査: 1981.9.29-10.15.
行き: アンカレッジ→ フランクフルト、ゲーテ博物館など/帰途: アムステルダム経由、運河クルーズ、飾り窓の小道、バール。

・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 評価調査団   技協、JICA、業務調整、現地調査: 1982.11.27-12.10.
  帰途: コペン経由ロスキレ、「バイキング博物館」


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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第3節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ


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     第7章・目次
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する [付属資料]JICA水産室時代における海外出張略履歴
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3-1節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
      第3-2節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その1)
      第4-2節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む