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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第3節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ


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     第7章・目次
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する [付属資料]JICA水産室時代における海外出張略履歴
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3-1節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その1)
      第3-2節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ(その2)
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その1)
      第4-2節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する(その2)
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む




  インドネシアでの漁港建設事前調査から帰国してすぐに本格的に取り組んだのは、北アフリカのイスラム教国であるチュニジア共和国での 「国立漁業訓練センター」というプロジェクトであった。担当してみて徐々に芽ばえてきた思いがあった。チュニジアは、 私的には、「課題のデパート」のようなプロジェクトであった。もちろん、最初から先入観をもってその運営に臨んだわけではない。 結局のところ後々になって知ることになったのは、チュニジアプロジェクトを通して学んだ教訓は他のいずれの案件よりも多く、 しかも多岐にわたっていたということである。

  さて、プロジェクトが所在したマディアは首都チュニスから南東200kmほどにある、地中海に面した小さな漁業町で、特に沿岸漁業が 盛んであった。チュニジア水産局の肝いりで、そこに国立の「漁業訓練センター」が設置されていたが、そこでトロール網、巻き網、沿岸漁具 (マグロ沿岸延縄を含む)の3つの漁労技術の全国的な普及や漁業生産性の向上をめざした。全国からセンターに水産普及員らが 集められ、3つの漁労技術に関する座学と実習を通じて彼らの技術レベルの向上、究極的にはチュニジアの漁業振興を目指した。

  日本からのインプットは、3漁法の長期専門家の他に、リーダー、業務調整員、さらに日仏語通訳兼翻訳の業務に当たる調整員の 総勢6名の長期専門家であった。また、マグロ延縄の漁労技術を指導するために、神奈川県・三崎界隈で「マグロ漁の神様」と称される、マグロ 延縄漁に長けた短期専門家なども派遣した。更には、青年海外協力隊(JOCV)の漁労隊員一名も指導に加わっていた。 他方、専門家らからのノウハウの直接的な受け手であるチュニジア側カウンターパートとして、それぞれの漁法につき少なくとも 一名以上指名された。

  彼らは大学を卒業してまだ日の浅い青年であった。若いカウンターパートは柔軟性があってノウハウの受け手としては申し分はない が、職業人として何がしかの漁労を専門にするものではなかった。つまり、漁労の実践経験は豊富とはとても言い難かった。実は、チュニジアには、日本の 場合と異なり、水産学部漁業学科のような漁業技術を専門に修得できる学部・学科はなかった。彼らは、チュニス大学の生物学部などで 生物学を専攻する教育学的バックグラウンドをもつ青年たちであった。

  先ず、各分野担当専門家によって、自身とペアを組むカウンターパートに対して個別的かつ集中的に漁労技術の指導が施された。また 協働して、指導要領をはじめ、同センターの受講生である水産普及員ら向けのテキスト類などの作成に取り組んだ。 漁労技術修得にほぼ目途が立った頃、今度は指導要領に基づき、シラバスやカリキュラムに沿って、カウンターパート自身が、専門家 の監督指導の下に、受講生に対して直接的に自身が担当する座学などを教授するために教壇に立った。 受講は約半年間をサイクルにしていた。このノウハウの最終的受け手として待ち構えるのは漁業従事者であった。即ちセンターでの漁業訓練 によって伝授されるノウハウの究極的なエンド・ユーザーは実際に漁業を勤しむ漁民らであった。

  かくして、漁労技術の受け渡しは4ステップ構造となっていた。仮に日仏語通訳専門家を含めれば、長期技術専門家→  通訳専門家→ カウンターパート→ 受講生である水産普及員や水産高校教員→ その先に控えるエンドユーザーの漁業従事者という、 5ステップ構造であったといえる。その技術移転プロセスの長さを想うと、ため息が出るほど長期におよぶものであった。 エンドユーザーである全国の漁民が普及員らから学び得た漁労ノウハウを実際の海での操業に生かして、今まで以上の漁獲高や漁業 生産性を得て生計向上に繋げて行くまでには、長い長い道のりが横たわっていた。時間や労力さらに経費の掛かる漁労ノウハウの移転方式であった。

  チュニジアのプロジェクトでは、通訳・翻訳を担う専門家とトロール網漁業専門家を除いて、フランス語には大いに苦労をしていた。 それ故に、技術移転のプロセスに通訳専門家というもう一人の「人材資源」を特別に投入することになった。だとしても、JICAの漁業 教育関連プロジェクトでは、少なくとも4ステップ(専門家・カウンターパート・受講者・エンドユーザー)となるのは、 至極一般的なことであった。それにしても、「国づくり人づくり」を目指しての技術の受け渡しや種まきの手法を観るにつけ、 大いにもどかしさを感じざるを得なかった。ただ、初めの頃は技術移転とはこのようなものと認識し、現実にはそれを受け入れ ざるをえなかった。

  フランス政府の援助の下フランス人がチュニジア人漁民へ直接的に技術移転する場合は別格として、例えばドイツの政府援助 機関「GTZ」の下でドイツ人が支援する場合でも日本のそれと五十歩百歩である。理論的には、日本政府が、漁労技術に長けフランス語にも堪能な 外国人専門家(例えばフランス人やフランス語を母国語とする外国人)を世界から広く リクルートして、カウンターパートや訓練受講生(または漁民)に対して直接に技術移転するという方法もありうる。ノウハウ移転のコストパフォーマンス は相当程度向上するに違いない。だが、日本が援助経費を全面負担しながら、技術移転や人材育成はフランス人などの外国人 によってなされるとなれば、二国間協力でありながら「日本と日本人の顔」が全く見えないということになる。それが最大の課題として 残る。日本国民は日本の顔が見えない援助をよしとするであろうか。

  例えば、「国際食糧機関(FAO)」が、漁業技術指導プロジェクトを日本政府からの全面的な拠出金をもって「FAOの名の下に」 実施するのであれば、どうであろうか。あるいは、複数国からの資金を一つのバスケット(特別共通口座)に寄せ集めて実施するか、 あるいはまたFAO自身の機関予算で行うのであれば、どうであろうか。これらの場合はFAO直轄か、多国間(マルティラテラル)協力 であり、日本国旗だけを掲げて援助するものでないから、日本の顔が見えなくともよい。むしろ見えないのが良い。 だが二国間(バイラテラル)協力であれば、やはり「日本人」専門家による日本による技術移転でないと困るのである。 日本からの全面的資金の下でバイで協力する限りは、やはり「日本国旗と日本人の顔」をみせてこそ日本による協力であることを示威することになる。 二国間協力の場合では、援助の資金ソースとその顔とがイコールとなるのがほとんどである。

  さて、3年にわたってこのプロジェクトの運営を担当することができた。そして、その間プロジェクトの運営管理に関する いろいろな実務的で有益な知恵を授かった。プロジェクトでは、漁労技術の普及や水産教育レベルの向上、究極的には漁業生産性の 向上などを目指して、両国関係者はそれなりに努力を重ね奮闘した。その過程で乗り越えねばならない幾つもの高い壁にぶち当たった。 乗り越えるのに想定外の時間と労力を費やしながら乗り越えた壁も多かったが、他方では乗り越えられず手痛い教訓だけを残すことになった 壁もあった。

  プロジェクト実施において往々にして直面する幾つかの共通的な壁や困難がある。その一つはカウンターパート の定着性の問題である。プロジェクトの成否を左右する最も深刻な問題であった。カウンターパートは専門家からの直接かつ最初のノウハウ の受け手である。一年ほどかけてノウハウの受け手として成長したカウンターパートが、道半ばにして個人的な事由かどうかは別にして プロジェクトから離脱したり、あるいはその他の事由で交代を余儀なくされることがあった。プロジェクトの使命を完遂する上 での最大の痛手となった。チュニジア側にはそれなりの止むを得ない事情があったとしても、日本側関係者にとってはお先真っ暗となり、 当該分野での技術移転をどう建て直すべきか茫然失意となる。

  チュニジア側には、せめて交代者を早期にリクルートしてもらう他手立てはなかった。新規に着任するまで半年以上掛かることがあった。欠員補充 が長引くことはそれだけ大きな痛手となる。全く最初からカウンターパートへの技術移転を始める必要があった。 いわゆるカウンターパートの定着率は、プロジェクトの進捗と成果に最も重大な影響をもたらすことになる。プロジェクトを5年間も 実施すると、その途上でそのような受け手の断絶が起こらないとは言い切れない。日本側、そしてチュニジア側であっても、両国の運営責任 者の意志とはかかわりなく、カウンターパートの個人的都合で時に起こりうることであった。 カウンターパートの離脱はプロジェクトにとって最大の損失で不幸な出来事となり、克服しようにも完全に克服できるとは限らない 難儀の中の難事である。

  第二に、言葉の壁がある。専門家とカウンターパートとの仏語コミュニケーションの壁は当初からつきまとった。 基本的には、ノウハウの効果的で効率的な移転のためには、フランス語による十分なコミュニケーション能力が必要不可欠といえる。 実技の場合は多少の例外はあろうが、座学での技術移転は以心伝心とは行かない。確かに建前としては、専門家もカウンターパート も英語能力を十分に有し、両者のコミュニケーションは英語を介して行われると謳われる。故に、技術移転は十分可能と言う建前と 前提に立つことがほとんどのケースである。だがしかし、実際は専門家もカウンターパートも英語が堪能であるとは限らない。 カウンターパートの高いレベルの英語能力、専門家の仏語能力のそれは、ノウハウの受け渡しには死活的に重要である。 専門家とカウンターパートの協働活動目標の達成の如何は、専門家の豊富な経験とノウハウはもちろんのこと、両当事者の英語・フラ ンス語によるコミュニケーション能力によって大きく左右される。

  プロジェクトの2年目の早い段階から、この語学の壁を乗り越えるための仕組みを模索した。日仏語通訳・翻訳を専門にこなす長期専門 家を特別に投入して、その語学上の困難性を大幅に軽減すべく対策を講じた。私の知る限りこのようなプロジェクト事例はなく、 例外中の例外といえた。座学において漁業理論を教授したり、漁労テキスト類を共同作成したり、また実習を指導するにも、言語による コミュニケーション能力が不可欠である。語学能力が不足すれば、それだけ人材育成の効果や効率を 確保することが難しくなってしまう。そこをフランス語に堪能な通訳専門家を投入して補った。指導に要する時間は倍化する ことになったが、指導の質は着実に倍化することにつながった。

  プロジェクト開始に先だって両国間で取り交わした「討議録(Record of Discussions; R/D)」という合意文書において、 トロール網や巻き網などの操業実習のための訓練船 については、チュニジア側が準備するという取り決めになっていた。センターには150トン級の「サラクタ号」という 訓練船が手当てされていた。だが、同船は船尾トロール船であり、巻き網(旋網)の漁労実習には装備と構造的観点からして不向きであった。 そのため、巻き網実習は大幅にずれ込んでいた。何度もチュニジア側に訓練用に民間の巻き網漁船の手当て(例えばチャーター) などの善処を申し入れていた。 だが、手当てできない空白期間がかなり長期間続いた。これが実習訓練の大幅な積み残しをもたらす第一義の要因となった。

  さて、プロジェクト4年目の1982年11月に評価調査団を派遣し、各分野ごとに指導期間をどう按配するか、両関係者で協議することになった。その 評価の結論として、実習訓練が当初から未実施となっていた巻き網分野については、実習船の手当てを条件に5年目以降半年間ほど 延長することになった。 沿岸漁具分野については、日本側の事情で当初から長期専門家の派遣が大幅に遅れ、カウンターパートへの技術指導はもとより、 水産普及員への十分な座学・実習を執行できなかったことを認め、ほぼ一年ほど延長せざるをえなかった。トロール漁法分野は、座学も実習も 当初計画通り進捗したことから、5年間で協力を終了することで双方合意した。

  プロジェクトの進捗の有り様は、専門家派遣の遅延が大なり小なり影響していたが、日本からの漁労実習用資機材の現地への 接到がかなり遅れていたために、軒並み実習の実施に支障を来すというマイナスの影響をもたらしていた。巻き網は実習船が たまたま手当ていなかったので、日本からの漁網資材供与の遅れは余り顕在化することにはならなかった。しかし、長期専門家の派遣が スムーズでなかった沿岸漁具分野にあっては、関連資機材の日本からの購送はプロジェクト当初から事実上不可能となり、 その座学も実習指導も致命的な遅れにつながった。結局、プロジェクトが始まって第一陣の資機材が送り届けられたのは、開始から 1年半以上も後のことであった。何故、資機材の購送に1年半以上もかかるのか、その複合的な近因と遠因とが時を経て少しずつ 自己認識できるようになってきた。

  資機材の遅延はいろいろな要因の重なりであった。専門家が現地に赴任後、住居を見つけ賃貸契約を交わし日常生活を落ち着かせるのに 数ヶ月はかかる。その翌年に利活用することになる実習用資機材をカウンターパート と協働して検討し、その詳細な仕様書(技術的スペック)を作成する必要がある。トロール網や巻き網のような大がかりな資機材の場合 であると、漁具構成の詳細検討や設計図面の作成などに相当の期間を要する。年間4~6千万円にも上る資機材の全ての仕様書の作成を終えるのに数ヶ月はかかる。 その後、チュニジア政府による「A4フォーム」と言う正式の機材要請書案の作成がなされ、同政府内手続きを経て外交ルートで水産室に 公式に届けられるまでにはまた何ヶ月も要することになる。当然ながら、専門家が未着任の沿岸漁具分野ではこの検討と仕様書作成はできないことに なった。

  要請書を待っていてはとても埒があかないので、担当者の私は、処理を前倒しするため外交ルートとは別建てで別途航空速達便で 送付されてきた仕様書の写しをもって、内容を一通り吟味のうえ調達部機材課に購送(購入と空送)の手続きを依頼した。仕様書に不明な箇所 があると、現地への確認作業に相当の期間を要する。 国際宅急便(DHLなど)、ファックスもインターネットもない時代である。へたをすると、技術仕様が不明確であるため、その照会のため何度 も国際郵便を往復させることになった。 因みに、商社入札においては、機材の技術スペックが明瞭であること、また原則として複数社間での競争が成り立つよう 技術スペックが作成されている必要がある。これに多くの労力、時間、経験が必要とされた。また機材課では世界中の何百もの案件が 第2~3四半期に集中し、その処理に目詰まりを起こしがちで、時間だけがどんどん消費された。

  入札後商社が決定されても、製造に何カ月もかかった。納入後、海上輸送されるのに数ヶ月かかる。コストは髙いが、やむなく ごく一部については空送することにしてかなり時間短縮を図った。チュニジアでの通関や国内輸送などの期間を考慮すると、専門家が赴任して資機材が現地に 届けられるのは、順調に事が進んでも1年以上要することになる。プロジェクト2年目の初期段階からこれらの資機材をもって実習できるのは すべてのプロセスが順調かつ短期に進捗した場合のみである。専門家による資機材の検討開始から現地に接到するまでの全ての工程において、 処理時間が少しずつずれて行くだけで、優に1年半は覚悟しなければならない。チュニジアのプロジェクトでは、後者のケースとなって しまっていた。前任者からこのチュニジア案件を引き継いだが、不幸にもインドネシア漁港案件の現地出張と重なり、 さらにまた私自身の不慣れも手伝って、工程が大幅に後ろにずれ込んで行った。

  当時、全てがアナログの時代であった。あるのは航空郵便だけであった。機材購送依頼書や漁具の設計図などを素早く受領する ための輸送手段は国際郵便だけであった。書類を日本・チュニジア間を往復 させるには15日から20日を要する、実にスローな時代であった。遅れの理由につながった工程は山ほどあった。自身でコントロールできない工程も多かった。 専門家自身の仕様書作成の不慣れやスペックに関する不備の多発、私自身の出張による不在や不慣れ、調達に関するJICA内部 規則に基づく手続き上の絶対的な所要時間、競争入札に堪えうる技術スペックの完成のために機材課で費やされる所要期間、メーカーによる 機材の製造期間、海送にかかる時間など、気の遠くなるようなプロセスと時間が掛かることになった。

  プロジェクト協力期間の5年間のうち少なくとも最初の1年半以上は、実習訓練の類いは何もなしえなかった。 これらの教訓は後に大いに生かされることになった。後章で詳しく触れたいが、数年後に赴任したアルゼンチンでの「国立漁業学校」 プロジェクトの合意文書の「討議録(R/D)」においては、最初の一年間を専門家とカウンターパートがさまざまな諸準備を こなすための期間と正式に明文化し、残余の4年間を実質的な技術協力のためとした。その結果、資機材は1年間は届かないこと を前提とした活動計画を立案することができた。チュニジアでの教訓が最も生かされたところである。このような取極めやプロジェクトスキームも前例はなく、例外中の例外であった。

  さてチュニジアプロジェクトに立ちはだかる髙い壁は日本人チーム内にもあった。語学能力、専門的技術力、人生経験や人生観、個性 など全てが異なる5~6人の長期専門家が、JICAによって、極論すればバラバラに一本釣りのようにリクルートされ、半強制的に チーム編成がなされることがある。チュニジアプロジェクトがまさにその例であった。プロジェクトによっては水産庁傘下の 行政・研究機関に全専門家の選考を全面的に依頼できる場合もあることはある。 5年間、全専門家がチームワークよろしく一丸となって技術指導に当たり、当初のミッションがフルに達成されることが理想である。 だがしかし、現実には多くの抑制的要素が組み込まれたりする。特にリーダーや業務調整員の指導力、人的資質など あらゆる要素が現地で試されることになる。

  チーム内での専門家同士の人間関係の親和性や協調性、組み合わせや相性などが時にプロジェクト運営の成否に大きな影響をもたらす。 互いの関係のこじれは、プロジェクトに大きな負のインパクトをもたらす。プロジェクトからの公式報告書の他に、 リーダーをはじめとする各専門家からの意味不明な私的なレターがJICA本部や担当者に寄せられ、内情をあれこれ訴え掛けられたりする。思い思いの訴状的な 個人レターは、時に不協和音が外部に発せられることを意味し、専門家の取り組みのベクトルが合わさってワン・チームになっていないことの 証左になってしまう。リーダーの指導力の下、各専門家による技術移転のベクトルを同一方向に導き、シンクロナイズさせられることが理想である。 だが、実際にはいろいろな悩みを抱え込んだり、人的摩擦の発生に翻弄される日本人集団へと陥ってしまうこともある。時にはチーム内で暴力まがいの 出来事が引き起こされることもある。そうなれば最悪である。

  専門家のあらゆる要素、例えば指導・統率力、専門技術力、英・仏語学的コミュニケーション能力、人格や人間的資質、社会経験と社会 生活上の知恵、人間関係構築能力など、ほとんどは目に見えない要素が、複雑に絡み合いつつ、日本側が強力なワンチームを形成できるか いなかが問われることになる。長く運営していると現地における専門家同士の人間模様とプロジェクト進捗状況がいろいろ 見て取れる。プロジェクト内部では、専門家同士でぎくしゃくしたり、 時には激しいバトルになることもあった。かくして、プロジェクトのさまざまな壁を乗り越えながら、何とかプロジェクトを「撤収」 させるに至った。そして、多くの教訓を学び、また忸怩たる思いを残すことになった。

  さて、1982年JICA評価調査団は、沿岸漁具分野については無条件で、また巻き網については訓練船の手当てを条件に半年から 1年ほど延長することで水産局長との間で合意しようとした。局長室で調査団はその協議結果を記した「討議録」にサインする直前のこと、念のため通訳調整員に 目を通してもらった。何と、事前に合意していた訓練船の船名が他船に書き換えられていた。調査団は局長に詰問した。 同船の所在地情報を得て、その実在を確認するため予備日を費やして遠距離にある漁港へ取って返した。局長からそんな処遇を 受けるとは想像だにしていなかった。そんな理不尽なことに巻き込まれることもありうる。それを教訓として肝に銘じた。 だが、後にも先にも相手国政府に明々白々のウソをつかれることは経験しなかった。

  カウンターパートの定着性の問題、専門家派遣の遅延など、日本・チュニジアの双方がそれぞれの責に負うべき諸課題があった。また 言語とコミュニケーション上の問題はずっと長く続いた双方の共通課題であった。それらを乗り越え、両国の専門家とカウンターパートとの協働によって 何とかプロジェクト上計画された活動項目は達成された。3分野において、カウンターパートへの技術指導書や水産普及員への座学用テキスト類・実習マニュアル などの作成、座学・実習用資機材の供与、分野によって達成度は異なるものの訓練船による海上実習、カウンターパートに対する日本での 技術視察・研修の実施など、プロジェクトを部分延長しながら主要な活動項目を執行しプロジェクト終了に漕ぎ着けることができた。

  ところで、最後に、担当者として最も心に引っ掛かったこととして、プロジェクト終了後のずっと先の未来に期待される真の 成果について一言。例えば10年後のこととして、水産普及員らによる全国的な技術普及の奮闘努力の結果、エンドユーザーの漁業 従事者の漁獲高や漁業生産性の向上などの水産振興が図られ、かつその成果が「見える化、可視化」されるのであれば、 日本国民の税金がチュニジアの「国づくり人づくり」に役立てられたものと、真にポジティブな評価を下しうるはずである。 単にプロジェクトの活動項目をやり終えたというだけでは、余りにも釈然としないまま心残りとなると感じていた。持論として、 プロジェクトの真の成果はそれではないという思いが心のどこかに常々あった。 10年後における真の成果の発現はどのようなものであろうか。プロジェクト終了時点には、それを見ようとしても見えるものでは全く なかった。当然のことである。

  水産普及員らへの漁業訓練と漁民の漁獲高や漁業生産性のアップとをプロジェクト終了時点においてストレートに直結させる のは全く尚早であり、短絡的過ぎると思われる。それなりの妥当な時間の経過を置かなければ、漁獲高や生産性向上などの成果は 発現されないことは紛れもない真実である。終了時点でそれを「可視化」するのは到底時期尚早であり事実上不可能である。 だが、日本・チュニジアが協働して「漁業訓練センター」で播いた種が、例えば10年後にどんな成果を発現しえたかを知りたいという 思いある。では、10年後のそんな真の成果を評価するための手法と基準について、 プロジェクトの当初段階においてどのように制度設計しておけば、その成果を可視化できるであろうか。

  果たしてその成果を「可視化」することは可能であろうか。理論的には可能であっても、それを実際に可視化するのは事実上 困難なようにも思われる。また、コスト・パフォーマンスの観点から無駄なことであると言われてしまうかもしれない。 思うに10年度にそれを評価するには、漁業訓練に参加した水産普及員や彼らの指導を受けた漁民にアンケートをする 他ないであろう。少なくとも一つの重要な方法である。例えば、水産普及員や漁民に対するアンケートの質問内容を想定するとすれば、 「貴方は10年前漁業訓練センターでトロール網、巻き網、沿岸漁具などの講義や実習を受講したが、それらを学んだ漁具漁法の ノウハウについて、過去10年いかほどの人数の漁民に対して積極的にそれを提供してきたか」。 「例えば、漁民向け講習会において総計何百人の漁民にそのノウハウを説明し提供できたと考えるか」。「それらのノウハウの 伝授によって漁民の漁獲量や漁業生産性のアップに寄与してきたと思うか。また、どの程度寄与したと考えるか」。 「それらがアップしたのはセンターでの漁業訓練によるものか、別の要因によることが大きいと推察されるか」、などを想い浮かべた。

  プロジェクトの成果発現には長い期間が必要である。それ故に、漁業訓練と漁獲高や漁業生産性アップなどの漁業振興との 関係性を質的あるいは量的に将来評価しうるよう、プロジェクト当初からそれなりの制度設計を工夫しておく必要がある。 成果を推し測るために如何なる設問をすることでその関係性を的確、客観的に把握できるであろうか。また、如何なる基礎データを 集積しておけば、それらのデータ比較によってその関係性を把握できるであろうか。漁獲高や漁業生産性アップなどの振興は他の技術的、社会経済的ファクターが 複雑に絡むことになるであろう。故に漁業訓練・教育と漁業振興との関係性について分析し評価することは難しいに違いない。 だから、今日までこのことについての解を見い出せないままに来てしまった。多くのプロジェクトで「国づくり」の種は播かれるが、 それらの真の成果を評価し見届けられるかが最後に残された最大の課題となろう。技術協力において最も悩むプロジェクト共通の テーマがここにある。

  最後に一言。このチュニジア・プロジェクトほど運営上の多くの反省点や教訓を生み残してくれた案件はなかった。 プロジェクトにおいて克服すべき真の壁は何であるかを理解し、どう克服すべきかの方策にあれこれ悩み、その解を求めようともがいた。 そして、さまざまな教訓的学びは、自身の大きな財産になり、後年のプロジェクト運営に大いに生かされることになった。

  さて、水産室で4年間もお世話になった後の異動先は、アルゼンチン海軍傘下の「国立漁業学校プロジェクト」であった。 チュニジアでの貴重な体験なくしては、アルゼンチンでのプロジェクトを遂行し遣り終えることは到底できなかった。結局、 プロジェクトにとって最も重要なことは、プロジェクトにそれなりの人材を得て、良好な人間関係の下ワンチームとなって使命に 立ち向かうことである。それこそがプロジェクトの成否を左右すると胆に命じた。JICA担当者はプロジェクトがどんな状況に 置かれようと、その運営を放り出す訳には行かない。使命を完遂すべく全身全霊をもってプロジェクトに向き合い最善を尽くす 必要がある。現地に赴任するJICAの業務調整員もまたしかりである。

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