Page Top


    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第9節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする


    Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


     第4章・目次
      第6節: 研究論文をもって起死回生を期す(その1)/地理的偶然による海洋資源の配分
      第7節: 研究論文をもって起死回生を期す(その2)/論文「アフリカ地域と200海里経済水域」
      第8節: 海洋学や海運学の面白さに誘われ、海へ回帰する
      第9-1節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする(その1)
      第9-2節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする(その2)
      第10節: 海洋コンサルタントとの出会い、そしてシアトルとの別れ



  「海洋総合プログラム」というのは、10月から翌年6月末までの1年間、実質的には3学期9か月間に修士号に必要な単位を 取得し、かつ一定の学業成績、即ち平均スコア「B」(平均80点)以上をマークすれば、LL.M.(Legum Magister; Master of Laws)  という学位を得られるコースであった。さて、第三学期(4~6月)においても幾つかの科目を履修し、学業面でもプライベート・ライフ面でも すこぶる上々に推移し、留学の喜びを噛みしめながら充実した第三学期を送ることができた。

  ところで、無事学期そのものを修了したとはいえ、深刻な悩みが一つあった。他の4名のクラスメートは、第三学期末までに 学位取得に必要な全単位を取り終え、ほそくさと卒業して行った。他方、私といえば、第一学期の2教科のドロップアウトが響いて、 単位不足を第三学期末までに完全にリカバリーできずにいた。要するに学位取得には縁遠い状況であった。単位を欲張って多めに 取得しようとすると、往々にして学業に消化不良を引き起こし、成績不良という結果を招き、平均値が「B」を下回ってしまう という別のリスクを抱えてしまうことになり、それを避け続けてきた結果今の状況に追い込まれてしまった。

  ところが、実にのんびりしたもので、その単位不足を逆転の発想下意外と楽観的に捉えていた。それが大きな錯誤であることを後 で知ることになった。シアトル・ライフも2年目を迎えていた。それをまたとない良い機会と捉えて、サマーシーズンに入るシアトル でのんびり自由気ままに過ごしてみたかった。シアトルで過ごすベストシーズンは、7から9月の夏期をおいてなかった。 夏以外の時季には曇天や雨天の日が多く、アウトドア・ライフやバケーションには到底向いていなかった。学生は屋内で勉強する他なく、 勤労者も事務所や工場で働くほか過ごしようがないとも言われていた。マイクロソフト社がシアトルに本社を構えたのは、それが理由 であると真しやかに噂されていた。翻って、夏季は別格で、快晴の日々が続き、屋外活動やバケーションを楽しむには最高の シーズンであった。

  学費や生活費などは余計にかかることは百も承知の上で、学位取得に不足していた数単位については、夏季バケーションをシアトルで 悔いなく楽しんだ後の秋学期に先送りしようと思い立った。実にシンプルな発想であった。夏期には、米国内の幾つかの都市を少しは 旅して、見聞を広めたいというささやかな希望を抱いていた。酷い貧乏旅行になっても、アメリカ社会事情と文化を知る上での絶好の 機会にしたかった。

  私のそんな目論みはかなり甘かったようだ。事は全く違った方向に進み出した。第三学期末にバーク教授と面談し、私のアイデアを 口にした折のことである。教授曰く、「夏学期に単位を取り、早く学業を終え世に出てお金を稼ぐのが良いのではないか」と 助言されてしまった。アドバイスと言うよりも、事実上の「お達し」か忠告であると受け取った。ずっと後で気付いたことだが、 「次の秋学期には新しい留学生が入学する予定であるから、夏学期に単位を取って学業を終えてほしい。さもないと後がつかえる」 ということだったのか。それに違いないと勘ぐってしまった。

  教授の一言にハッと我に返った。一瞬戸惑いを隠せなかったが、それは言い得ていることでもあった。当初の目論みはあっさりと 崩れ去ってしまった。教授のアドバイスを率直に受け入れて、旅プランを諦めて、バケーションにはベストシーズンであるはずの シアトルに踏み留まり、学業に精を出し単位を取得し全てを修了するという決意を胸に教授室を後にした。

  キャンパスに足止めとなり、サマーセッションに身を投じ学業に専念するのは仕方がないと一旦は潔く諦めたものの、だがしかし、 悲しいかな思い描いていた旅行のことが脳裏から離れなかった。学業に身が入らないような精神状態を続けるのは良くないとの 思いがもたげて来て、ついに旅への誘惑に勝てなくなってしまった。「思い切って旅に出るべし、善は急ぐべし」と、夏学期が始まる 前の少しの間隙を縫って旅を敢行することにした。

  旅への渇望を抑え切れずに向かった先はロサンゼルスであった。大学時代の部活で一緒だった後輩と再会した翌日、ダウンタウン に社屋を構える民間会社「ヒューズ社」を訪ねた。同社は深海底に無尽蔵的に賦存する鉱物資源のマンガン団塊を水深4~5,000メートル から商業的に採鉱するための技術開発とその事業化に向けて莫大な投資を行なっていた。 いわば団塊開発の世界的トップランナーであった。採鉱技術開発の将来的展望や同社への就職の可能性はいかほどか、 何がしかの情報を得たいとの思いがあった。だが、ノーアポということもあって期待通りの情報入手はできないまま、 次の目的地であるサンディエゴへと向かった。

  サンディエゴのダウンタウンで安ホテルを確保した後、そぞろ歩きのつもりで海の匂いがする方向へと散策に出掛けた。 暫く足を進めると海が開け、船溜まりの中に一隻の小型帆船が係留されていた。写真を何枚か切り撮った。 帆船の船尾には「スター・オブ・インディア号」という船名が刻まれていた(後でネガフィルムを現像してみて船名を知った)。 当時、それが「サンディエゴ海洋博物館」の一部を構成する海上展示船なのかどうか、全く気にすることもなかった。

  岸壁には、見るからに近代的で最新鋭のカツオ巻き網漁船も係留されていた。カツオ漁船といえば日本の一本釣り漁船しか イメージになかった。だから、そのカツオ巻き網船の優れて近代的装備もさることながら、高度回遊性のカツオを巻き網という漁具漁法 によって一網打尽に捕獲すること自体に驚かされたことを今でも記憶する。

  波止場の周辺には、船舶模型や海事関連史料などを展示する 「海洋博物館」があった訳ではなかった(実際に存在したものの、それに気付かなかっただけかも知れない)。当時、 海事関連の博物館を訪ねようという趣味は全くもち合せていなかった。訪れたことのない処女地の港や船風景に触れて見たいと、 岸壁に沿って散策を楽しむ程度であった。だが、30数年後にその同じ岸壁にたたずむ機会があり、正に同じ場所で全く同じ帆船を目に することになろうとは思いもよらなかった。その時には船舶博物館「サンディエゴ海洋博物館」として波止場に係留展示されていた 数多くの退役艦船を訪ねることができた。

  さて、サンディエゴには別の目指すべき訪問地があった。翌日、ダウンタウンから電車とバスを乗り継いで、数10km北にある ラ・ホヤという太平洋岸沿いの町に向かった。ラ・ホヤは海浜高級リゾート地としても有名であった。その郊外に海洋研究のメッカとも いえる「スクリップス海洋研究所」があった。米国東海岸にある「ロードアイランド大学海洋学部」や「ウッズホール海洋研究所」 などと並んで、スクリップスは世界でも最高峰の海洋研究・教育機関である。ワシントン大学の「海洋総合プログラム」で海洋学の基礎編を 教わったフレミング教授は、この研究所を退官しUWに迎えられた著名な海洋生物学者であった。

  「ス」研究所のキャンパスは、そこそこ急峻な崖の上にある平坦な高台から海岸線までの斜面一帯に広がっていた。その高台から 見下ろすと遮るものもなく眼前に太平洋の大海原が180度広がる。単調な海岸線に沿って砂浜の海水浴場が南北に延々と伸びている。 海岸からは一本の大桟橋が数百メートルほど沖へと突き出し、その先端には研究調査船が接岸されていた。崖の斜面に沿って数多くの海洋教育・研究施設、 図書館、付属水族館、カフェテラスなどが、ゆったりとしたスペースの中に配されている。海洋学ラボでは海底ボーリングによって 採取された柱状コアサンプルを解析しているところを見学させてもらった。また、研究所附属の海洋生物展示館(水族館)を訪ね たりもした。ジュラシックパークのような深緑に覆われたワシントン大学とはまるで風趣が異なるキャンパスを散策しながら、 暫しゆったりとした時間を過ごすことができた。

  サンディエゴはスペインやメキシコとの歴史文化的繋がりが深かったこともあり、またメキシコと地理的にも近いこともあり、 シアトルとは趣きが全く異なっていた。商業・港湾と観光都市であった。近郊には広大な敷地を誇る「バルボア・パーク」があり、 ラテンアメリカ文化の風趣が至る所に漂い、大勢の一般市民や観光客が憩っていた。私的には、生まれて初めてラテン文化的な 風趣との「遭遇」に人知れず喜びを噛みしめ高揚していたことを覚えている。

  青少年の頃に船乗りとなって南米のサントス、リオ・デ・ジャネイロ、ブエノス・アイレスなどの港町でラテンアメリカ文化の 風趣に触れることに憧れていたが、サンディエゴでそれらしきものに遭遇できて何か陽気で明るい気持ちになれた。 そして、それに大いに触発されてのことであるが、折角の機会であると気を取り直し、国境を越えてメキシコの土を踏んでみる ことにした。当初予定していなかったが、敢行した。フリーウェイの大規模な米墨国境ゲートを通過した後間もなく国境の町 ティファナへと入り、旧市街地の一角にある安宿にありついた。かくして、生まれて初めて中南米のスペイン語圏の国メキシコ の土を踏みしめた。

  アメリカナイズされた国境の田舎町ではあった。だが、私にはラテン文化の風趣に浸るには十分な町であった。そこで初めて どっぷりとスペイン語環境に浸った。初めての体験こそが私に新鮮な刺激をもたらしてくれるものであった。市内の闘牛場にて一度は本場の闘牛を観覧してみたいと勇んで 出かけた。最初は、仰々しいほどに鉄壁の防護装具に身を固めた馬上の剣士が、よってたかって牛の背の首元あたりの急所に 剣を刺し込んで行った。牛は徐々に突進する勢いを失って行った。ほどなく赤いマントを振り回す主役の闘牛士が 次々と同じ急所をめがけて剣を刺し続けた。そのたびに牛から血が吹き出し、場内は大歓声で地響きがした。最後の一剣をもって 止めを刺す。その瞬間こそが闘牛のクライマックスであった。最後の一剣で巨体を倒せれば、闘牛士の最高の誉れとなる。彼は英雄となって 拍手喝采を浴びた。だが、時には闘牛士が牛の角によって宙に髙く舞う場面も見せつけられることもあった。彼は牛に踏みつけられ最早起き上がることさえ できなかった。かくしてティファナで闘牛と言うスペイン文化の代表的な「舞台劇」をみせられた。

  少年の頃私が育った農家では、牛一頭を毎年大事に育てていた。身体の大きな牛には似合わない愛らしいつぶらな瞳をみ つめながら毎日牛の世話をし慣れ親しんできた。闘牛が仕留められるシーンはやはり残酷なものに思えた。異文化への感動どころか、 価値観の相違に大きな衝撃すら覚えた。正直違和感だけが残ってしまった。 闘牛士と牛との闘いは、彼の事故死や大けがと隣り合わせであり、迫力ある闘いの場景がそこにあるかもしれない。だが最後まで 血なまぐさいもので、自身がひどく傷つけられたような気になってしまった。表現しがたい残像と余韻を引きずりながら、スタジアム を後にした。

  二度と闘牛を観るつもりはなかったが、スペイン旅行中止む無き事情があって闘牛観戦に付き合わされる機会に出くわした。その時は何の感激も高揚も 湧かなかった。スペイン文化やラテンアメリカ文化に興味をもち続けていたが、闘牛だけは親しみがもてなかった。ともあれ、ティファナ にて束の間の異文化体験を楽しんだ。そして、その後の人生において、中南米の地に8年以上 も身を置くことになろうとは想像もしなかった。ティファナことラテンと中南米文化を知る上で最初の起点となった町であった。

  休題閑話。旅から帰って夏学期の学業への本格的な準備を始めた。今期において集中的に取り組みたいテーマは、深海底に賦存する マンガン団塊に関するものであった。早速、関連資料を収集することから始め、キャンパス内の二つの総合図書館とその他学部の専門図書館 を巡り歩いた。そして、資料を片っ端から収集し通読しながら、マンガン団塊の地理的分布状況、成因や金属元素の含有比率などの 鉱物学的な特性、採鉱や精錬の技術開発の現況、採鉱と海洋環境インパクト評価手法、主要含有鉱物の経済的価値や国際市況の動向 などを概観しようと務めた。他方で、マンガン団塊の開発管理制度(探査・開発の事業主体、鉱区割当、国際管理機関の構成、権限、規制、意思決定方法、 生産管理、鉱物産出国への配慮、途上国や国際機関への技術支援、収益配分など)の審議状況や課題などを理解しようとした。

  団塊は、1873~76年の英国海洋調査船「チャレンジャー号」の世界海洋探検航海において初めて発見された。団塊には マンガン、鉄の他に、微量ながら銅、ニッケル、コバルト、亜鉛、モリブデンなどほとんどすべての有価金属元素が含まれている。 当時としては、最も豊富な賦存海域は、北部太平洋の赤道付近であり、ハワイ諸島の南東海域の北緯20~6度30分の水深3000~6000 メートルのクラリオン・クリッパートン断裂帯と称される海底であった。

  単位面積当たりの賦存量としては、例えば、太平洋全域での平均値11.2㎏/平方メートルというデータも見受けられた。ある学者は、 太平洋海域での団塊に含有される銅の全量は、1960年での世界消費量の6,000年間分、ニッケルは15万年分に匹敵するとまで概算していた。 また、極めて低い率であるが、団塊は数百万年に1~100ミリ程度凝集されつつあるともいわれた。とはいえ、凝集速度や海洋に賦存する 全量について一致した学説は当時としては未だないとされた。

  一般論的には、鉱物資源開発に要する技術・資本力を有する先進諸国は、マンガン団塊をできるだけ自由に探査・開発することを望んでいた。 1973年に国連第三次海洋法会議の第一会期が当時始まって間もない頃には、マンガン団塊を「人類の共同財産」として、 その探査・開発は新設されるはずの何らかの国際機構による一元的管理に服することを頑なに主張する途上国「グループ77」と、 できるだけ緩やかな管理の下での探査・開発を求める先進諸国とが激しく対峙していた。

  米国、英国、フランスなどの先進諸国が主張していたのは、国家あるいは民間企業体は、団塊の探査・開発に当たって形式的に国際機構からライ センスを取得し、その対価として一定の合理的な許認可手数料あるいは登録料を支払うという「ライセンス方式」であった。 国際機構の機能は、開発企業体間の鉱区割り当てにかかる利害対立回避のための調整を果たすことに限られるべきというものであった。

  これに対して、東欧諸国を含む発展途上国の「グループ77」は、深海底を人類全体に帰属させること、その資源を「人類の共同財産」とすること、 その開発による収益に関し途上国も平等に享受すべきであること、さらに設立される国際機構の強力で一元的な管理の下で 開発のコントロールが行われるべきであることを主張していた。

  即ち、「G77」は国際機構が探査・開発・精錬・販売までの実施主体・事業体となることを頑なに主張していた。 しかし、機構そのものには技術・資金力がないことから、先進諸国の企業体は、機構自身の事業体(「エンタープライズ」と称された) とのジョイント・ベンチャー(共同事業体)契約の下で、オペレーター(操業者)として雇われそれらの活動に参加すべきというものであった。 国連海洋法会議の初期段階では大きくは、「ライセンス方式」と「直接開発方式」のこれらの2方式が、先進国・途上国間で鋭く 対峙していた。そして、1975年当時にあっては、その行方は混沌としたものであり、開発方式に関する合意形成はいかなるものに落ち着くか、全く 見通せる状況にはなかった。

  時間軸をその後1年ほど早送りして、その対峙の行方を追ってみたい。米国がその対峙の打開を図るために重要な提案を行なった。即ち、1976年第4春会期において、 米国キッシンジャー国務長官が提案したものである。国際機構はその下部に組織される事業体でもって直接開発することができること、 同時にまた国家企業体および民間企業体は、国際機構と契約して探査・開発できる。そして、同企業体は、探査契約時において、同等の商業的価値を 有するの2の鉱区を申請し、一方の鉱区に対する探査が許可される。他方の鉱区については、機構の事業体や途上国による開発のために留保される、ということが提案された。

  先進・途上国間の対峙は基本的に、探査・開発に従事する事業主体を誰にするかということであり、それは最も際立った 対立点であった。だがしかし、対立点はそれだけではなく、後々には様々な重要事項につぃき対立点が浮上して来ることになった。 それらの対立点について双方の外交的妥協が図られ、海洋法条約案の最終的な採択にまで漕ぎ着けるためには、その後7年以上もの 歳月を要することになった。

  条約案の最終合意形成がはかどらなかった根本要因は、ひとえにマンガン団塊の探査・開発法制に関し一致点をなかなか 見いだせ得なかったことによるものである。それは無理からぬものであった。団塊の開発管理レジームの創設は、国際社会にとって 過去に経験したことがない作業と智慧の積み重ねであったといえる。即ち、人類にとって、「人類の共同財産」と位置づける資源の 探査・開発・収益配分などを一元的に担う国際組織とその管理運用のための法的レジームを史上初めて創設するものであった。

  さて、夏学期において、マンガン団塊の開発管理につき、何処に焦点を合わせ、如何なる視座の下にタームペーパーを書き上げるか 思索を続けた。当時団塊の採鉱システムには大別して機械式の連続バケット方式と、巨大掃除機のようなサクション装置による 団塊のポンプ式リフトアップ方式があった。団塊の探査開発の規制・管理のための法的レジームについては副次的論究とし、むしろ採鉱 がもたらす海洋環境への影響評価の現況、あり方、課題などをメインに論究することにした。

このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.



    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第9節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする


    Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


     第4章・目次
      第6節: 研究論文をもって起死回生を期す(その1)/地理的偶然による海洋資源の配分
      第7節: 研究論文をもって起死回生を期す(その2)/論文「アフリカ地域と200海里経済水域」
      第8節: 海洋学や海運学の面白さに誘われ、海へ回帰する
      第9-1節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする(その1)
      第9-2節: 深海底マンガン団塊と海洋環境保全を深掘りする(その2)
      第10節: 海洋コンサルタントとの出会い、そしてシアトルとの別れ