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    第8-2章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第7節 エピソード(その一)/笑えない本当の話


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     第8-2章・目次
      第5節: プロジェクトのその先を探り、明るい未来を拓く
      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
      第7節: エピソード(その一)/笑えない本当の話
      第8節: エピソード(その二)/笑えるウソのような話



  アルゼンチンを離れるに当たって率直に嬉しかったことは、「よくぞ五体満足にして生きて日本に帰れる」ということであった。 全専門家とその家族が無事に3年間やり過ごすことができたことこそ何よりも意義深く喜ばしいことであった(もっとも漁具漁法専門家 は残留する)。それほど感慨深くなることには訳があった。ピストル強盗事件(傷害と車強奪)、住居への押し入り強盗(刺死傷未遂)、 住居侵入と窃盗、カーステレオの窃盗、ピストル脅迫事件(金銭脅迫強奪未遂)など、赴任2年目以降における治安悪化は凄まじかった。

  1年目のことであったが、漁業学校建設請負業者フジタの現地駐在日本人社員が、マル・デル・プラタの市街地の路上で社有の車に乗り込もうとした時に、 ピストル強盗に襲われ車を盗まれた。彼の一瞬のしぐさが強盗の目には抵抗と受け取られたらしく、3発も実弾を発射された。 弾一発は空中を飛び去ったが、二発目は腕の肘を貫通した。三弾目は顎に当たり、その弾の細かい破片が肺まで食い込んだ。 肺に穴が開き空気が漏れ出るという重傷を負った。その後治療が一段落した頃を見計らって、治療継続とリハビリのために早期帰国 せざるをえなかった。治安を巡る恐怖心を呼び起こした最初の事件であった。JICA事務所長らと共に地元警察署をこの時初めて訪れ、 その後は治安にも心を配る大きなきっかけとなった。そして、その事件を手始めにして以後何度も警察署に通い世話になろうとは 思いもしなかった。

  2年目になり、単身赴任の専門家2名はいつも毎週末土曜日の午前早くに車で出掛けるという行動パターンを盗み取られていたようであった。 午後帰宅してみてびっくり。空き巣に入られ、物色されめぼしい貴重品が盗まれた。専門家「K」氏の玄関は少し奥まっていて、 犯人が身を潜め開錠するに組み易い構造になっていて、表通りから見えにくかった。その数か月後、もう一人の単身赴任の専門家も、 同じ行動パターンを盗まれ土曜日午前の留守中に押し入られ 同じ目にあった。行動パターンを意識的に変えて、用心に用心を重ねていることを潜在的犯罪者にしっかりと分からせることでしか避けようがなかった。 次は我が家かと身構えた。私の家は四つ角にあって、路線バスがひっきりなしに通っていた。しかも玄関がその四つ角に面し、そこに バス停があった。大抵、乗降客の姿がバス停周辺にあったことが幸いして、難を免れ続けていたようであった。

  しかし、危うく押し込み強盗に近寄られそうになり、一瞬胆を冷やしたことがあった。私の家も狙われていることを確信した瞬間で あった。ある日夕方近くに帰宅して、車をガレージに入れようと、エンジンをかけたまま車を停車させ、ガレージの手動式スライドドアを開けようとしていた。 そこに、ぼろい車に乗った二人組の男がどこからともなく近寄ってきて、ガレージを覗きこみながら「何か手伝おうか」と話しかけてきた。 「しまった!」と一瞬後悔し、「これはやばい!」と危険を察知した。全く無警戒で心臓が止まりそうになった。

  「ア」国では、車に乗る時には、前後左右に不審者がいないか十分確認することが既に習慣化していた。だが、車から降りる特はほとんど無警戒であった。本来ならば、 車庫に入れる時は、家族が周りを警戒しつつガレージを開けるなどして、協働作業をして周りに注意を払うのがより安全なやり方であった。分かってはいたがそれを習慣には していなかった。車庫入りのため下車したところをピストルや刃物で脅され、家族もろともトイレなどに閉じ込められ、あらゆる目 ぼしいもが物色されたうえ、私の車もろとも強奪されていたかも知れなかった。推測するに恐らく、いつも近く で私の動きを探っていた彼らは、タイミングを見計らってガレージに近づいて来たものの、その時は犯行には及ばずずらかったので あろう。当時四つ角周辺にはかなりの通行があったことも幸いしたのかもしれない。車庫入れ時にはほとんど無警戒 で過ごしていた。ちょっとした隙を突かれ凶悪犯罪を誘発しかねなかった。思い出すたびにぞっと恐怖心が湧いてくる。

  住居への侵入だけではなかった。5歳の長女が一人、自宅を基点にして縦横 100メートルほどの一市街区周囲の道路や歩道で自転車を乗り回して遊んでいた。それを見ていた隣に住む知人がびっくりして 我が家に飛んで来た。「親の目の届かないところで一人自転車遊びをさせては危険だ!」と忠告に来てくれたのだ。外国への臓器売買を 目的にして誘拐されるリスクがあるからだという。そんな警戒心など全くなかった我々は、 恐ろしくなって二度と一人ではそれをさせないことにしたのは言うまでもない。日本と「ア」国での治安状況やリスク意識の違いの一例である。

  3年目にはリーダー宅に強盗が台所の窓ガラスを破って押し入った。出張直前であったので一まとめにして食卓の上に置いていたカメラ、 現金などの貴重品をごっそりと盗まれた。犯人が去った後の食卓上には、台所から持ち出した包丁が無造作に置かれていた。その日は夫人だけが在宅していた。 夫人は二階の寝室で内側から鍵を掛けて読書中であった。何かの物音に気付いたものの、猫だろうと思い階下の居間・ 台所へ確かめに降りて行かなかった。それが幸いして強盗との鉢合わせを間一髪で免れた。

  またある日のこと、リーダー宅から50メートルほど離れた四つ角に不審なぼろい運搬車がいつも止まっていることにリーダーが気付いた。 警察に連絡して状況を調べてもらおうと二人で相談し合った。そんな矢先のこと、翌朝からはその車はいなくなっていた。 未然に防げたようだった。

  自宅への強盗は本当にぞっとする話である。JICA職員が自宅に強盗に入られ殺害されるに至ったという身近な事例は過去に数件 仄聞して来たのでなおさらであった。プロジェクトでは、専門家自らが身を守るために通勤時間やルートに変化をもたせるようにもした。潜在的犯罪者に行動パターン を掴まれないこと、さらに常々警戒していることをしっかりと悟らせることが何よりも重要であった。極論すればこれしか身を守る手立てが ないくらいであった。日頃の無警戒がリスクを最も高めることになるのは自明であった。

  ある時カウンターパートに訊ねてみたことがあった。何と何と、ほとんどが自身や親戚の者がこの数年の間に押し込み強盗に 押し入られるなどの痛い目にあっていた。その手口の一つによれば、狙いをつけた住居への強制侵入に成功すると、家人を縛り 上げたり、トイレに押し込めたりする。そして、乗りつけてきたトラックをその住居のガレージに入庫させ、家財道具などを ごっそり積み込み平然と逃げ去るというケースが多かった。

  ある時、4人組の窃盗団が路上に駐車してあった高級乗用車を盗み逃走せんとする場面に偶然居合わせた。銀行で用足しをして、 自身の車に乗り込もうとした矢先のこと、4人組が車の4つのドアに向かって一斉に身を投げ入れたかと思うと、全て開けたまま 車のエンジンを全開にしてタイヤを軋ませ黒煙を吐きながら急発進して走り去った。 私とは狭い通りをはさんで斜めに10メートルも離れていなかった。まるでアクション映画のワンシーンを見ているようであった。 一瞬何が起こっているのか理解できなかった。銀行から「泥棒!」と叫びながら人が出て来たので、初めて車が盗難されたことを知った。

  私は何も考えずに反射的にすぐさま自身の車に乗り込み後を追った。そして、100メートルほど追いかけたところで、はたと我に返った。 「何をしているのか?」と自問した。追いついて盗難車の前方を塞いだところで、その後一体何ができるのか。4人組は凶器を もって向かって来るかも知れなかった。正気を取り戻し、追いかけるのを即時取り止めた。止めたのは既に盗難車が既に視界から 消えていて追いつけなくなっていたからでもある。

  事件には枚挙にいとまがなかった。路上駐車させていた自身の車のドアのキーがこじ開けられ、 カーステレオがすっぽりと引っこ抜かれた。余りに「美的かつ手際よく」盗まれていたことから、友人にそれを指摘されるまで全く気付かない ほどであった。一回ならまだしも、その後二回も同じように引っこ抜かれた。窓ガラスを壊す 必要もないほど簡単にドアのこじ開けが可能な車種であると、後で保険会社から打ち明けられた。盗難の時間帯などの事情は異なったが、 一度はズボラをして車を車庫に入れずに寝てしまったところ、その夜中にやられた。またもう一回は1986年にメキシコでワールド カップが開催された時の事、昼間頃に職場から急いで帰宅し、車を自宅前の路上に駐車させアルゼンチンの決勝戦を一家で観戦に夢中に なった。さて、観戦後車に乗り込んでみたらステレオが盗難にあっていた。泥棒はその決勝戦の日と私の車にずっと狙いを定めていた いたのは明らかであった。サッカー決勝戦時に車をガレージに入れず路上にほんの数時間駐車して夢中になっていた時がまさに「稼ぎ 時」として狙われたようだ。

  これらは保険でカバーできたので可愛いものであった。保険会社も手慣れたもので、盗難に遭った 車を直に点検することもなく、口頭の自己申告のみをもって直ぐに処理してくれた。保険でカバーされることになっても代替のカーステレオ が品薄らしくリセットに時間がかかったり、場合によっては中古品がセットされたりもした。盗まれた私のステレオは他者の盗難車にセット されているのは確実であろう。笑うに笑えなかった。

  ある事件の数か月前に「ア」人仲間とサッカーに興じバーベキューパーティーを楽しんだ。その仲間の一人がピストルの流れ弾に当たって亡くなった。通りに面した彼の 住居にピストル強盗が接近してきた。飼っていた犬がそれを察知して吠えたてた。家中にいた彼は不審に思い、何事かと身をかがめて 上下開閉式の雨戸の下方にあった隙間から外を覗こうとした。その時、強盗が犬めがけて発砲したという。全く運悪く、その流れ弾が その隙間からいきなり飛び込んできた。そして、彼の心臓を直撃してしまったという。3年目になるとひしひしと身の危険が 迫りつつあることを感じざるをえなかった。

  極めつけは「脅迫」であった。3年目に入ったある日の夕刻のこと、学校で勤務中であったところに一本の電話が掛かって来た。 私はその足でブエノス・アイレスへの最終便に搭乗する破目になった。 ブエノスでの常宿であった「クリジョン・ホテル」のすぐ隣にあるカフェテリアで夜遅くある男性と落ち合った。 名刺には、ある探偵会社名と電話・住所が記されていた。背広の内側にひそませたピストルをちらりと見せ付けられたりもした。 そして電話で聞かされたある話を再び今度は面と向かって聴かされた。ある女性が私を探しているという。何度聴いても全く思い 当たる名前ではなかった。

  彼曰く、「貴方をようやく探し出したことを上司に報告せねばならない」。だが、「事の次第によっては、見つけられな かったと報告してもよい」という。世間話をしたり本論に戻ったりを繰り返しながら、彼の真意を探った。そして、私は「話はこれまで 」としびれを切らして席を立ち店を出る素振りを見せた。案の定、ついに金銭を要求された。5,000USドルを支払えば、ボスには「貴方を見付けられ なかった」と嘘の報告をしておいてもよいという。

  初対面の男性から「作り話」を聞かされた私はきっぱりと拒絶した。そもそも、コーディネーターとしてこの種のことに 巻き込まれること自体が由々しきことであり、また恥ずべきことであった。だが、既に巻き込まれてしまっていた。 コーディネーターは、プロジェクトのあらゆる実務的采配や処理を行ない、外部とのさまざまな調整や渉外なども担当する。だから、調査団 であってもプロジェクトであってもコーディネーターたる者は、タンゴショー・カラオケ店・国際的 ショーハウス・ナイトクラブなどの情報入手だけでなく、実地に下見したり体験したりもする。仕事の一環として日本からの調査団やプロジェクト へのさまざまな訪問者に対していつでも情報提供したり、時に実際に案内もできるよう務めてきた。また、いろいろな関係者に会い社会事情 の把握に注力してきた。その中で、多くの人々とすれ違ったり、会話を交わし交流する ことは当然の流れであった。会った全ての人の名前などを記憶するなどできるはずもなかった。

  彼との対話の中でいろいろ探りを入れながら、彼の嘘を見抜こうとしたができなかった。これ以上会話しても全く無駄と判断し席を立 って再び帰える仕草をした。探偵は支払いに応じた方が得策であることを何かと匂わせる。また引き留められる。1時間ほど繰り返した後、 最後の最後に支払いをきっぱりと拒絶して対話の打ち切りを宣言した。さて「上司への報告を1週間だけ待つ」のでそれまでに 返事をよこすようにと、彼から最後通牒を突き付けられた。

  苦し紛れに一度支払うものなら、次は別の口実を持ち出して金銭をゆすりにかかって来る可能性が大であり、エンドレスの事態に追い込まれ るように思われた。きっぱりと拒絶して店を後にした。私的にはこれで決着済みであった。だが、 彼の方は諦めることなくコンタクトを繰り返し、事を成就しようとするであろう。そこで、一週間いろいろと奔走し、友人の強力な助言 と助力を得た。また、友人を介して連邦警察にも世話になって、1週間後には晴れてこの脅迫事件の終止符に漕ぎ着けることがで きたというのが結末である。

  連邦警察が彼の事務所を訪ねると、机と電話があるだけで誰もいなかったという。事務所の管理人は探偵のことについて 口を割らざるを得なかったことであろう。二度とコンタクトして来ることはなかった。恐らく警察から「相当のお灸」を据えられ たことであろう。彼が何の違和感もない流暢な日本語をしゃべる人物であったことに強いショックを禁じ得なかった。 なぜなら、アルゼンチンの日系社会では犯罪者は見当たらないという話をよく耳にしていたからである。事件に下手に関わって いたとすれば、事はとんでもない方向へと展開していたかもしれなかった。ただただ幸運であった。 それにしても、金銭を脅し取ろうとする脅迫自体についても、また脅迫者が日本語を流暢に話す者であることにも唖然とする ばかりであった。誘拐されるリスクも十分ありえた。思い出すたびに、ぞくぞくと寒気がする出来事であった。

  アルゼンチンでの生活が長くなればなるほど、窃盗・強盗事件などに遭遇するリスクは必然的に高くなるものだとしみじみと実感する ようになった。マル・デル・プラタは「ア」国最大の海浜リゾート地であり、夏ともなれば避暑客で人口は数倍の50~60万人に膨れ上がった。 潜在的犯罪者も出稼ぎにごっそりやって来ると言われていた。普段は小さな地方都市であり、日本人専門家の車のナンバープレート の色が一般他車と異なる外交ナンバー(国際機関用)こともあり、どうしても目立つようになった。だから、窃盗・強盗などのターゲット になるリスクが確実に高まっていたはずである。

  彼らの仲間内で金儲けのための「美味しい有力情報」が売り買いされているのは常であった。犯罪に巻き込まれるのを避ける方法は、 やはり「君子危うきに近寄らず、また危うきを遠ざける」ことであった。日常の行動パターンを掴まれないこと、細心の警戒心をもって 常時用心を怠らないことを潜在的犯罪者に悟らせる以外に防ぎようがない。彼にスキを見せないこと、いつも用心深い人であることを知らしめる他にない。 そして、安全確保は重要な仕事の一つであること、仕事以前に安全確保が第一であること、安全があってこそ仕事を励行できることを肝に銘じた。

  なぜ治安のことにこれ程まで触れるのか。我々専門家はいろいろな事件に巻き込まれはしたが、不幸中の幸いとして、誰一人として 身体に危害を加えられずに済んだ。専門家と家族は身体的な被害に一切遭うことなく、3年間無事に過ごせたことは真に幸運であった。 これほど重要な意義をもつことはなかった。

  万が一、身体に重大な危害が及ぶことになれば、大ショックを受けることになる。仕事どころではなくなり、早期帰国を余儀なくされ たりする。事件によっては、技術協力活動そのものの一時中断や全員引き揚げにもなりかねない。それは、日ア両国の漁業教育の発展 、両国の友好と協力の促進にとって残念な結果となりかねない。従って、安全はいつも最優先事項であった。帰国に当たってこのことを強調したかった。 また、五体満足での帰国について何はともあれ深く感謝したかった。無事であったからこそ、マル・デル・プラタから、そして アルゼンチンから、たくさんの思い出を脳裏にしまい込んで帰国の途に就くことができた。

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