「独り言」を漏らした結果、水産室で机を並べていた先輩職員が譲ってくれたもう一つのプロジェクトは、アルゼンチンの
「国立漁業学校プロジェクト」であった。プロジェクトを成立させるためには両国の合意形成を図る必要があった。
譲ってくれた先輩はその交渉上の難しさをしみじみと吐露した。
そして、「アルゼンチンの技術レベルは漁業のそれも含めて高く、また学校関係者のプライドも相当髙い。技術協力プ
ロジェクトを合意形成するまでの道のりは長く、ハードルも高いので、いろいろ苦労も多かろう」と言いつつ、案件ファイルを手渡
してくれた。プロジェクトを打ち立てる上で立ちはだかるハードルとはアルゼンチン関係者のプライドの高さにあることを肝に銘じた。
いずれにせよ、時には「独り言」も漏らしてみるものだ、と内心大いに喜んだ。その独り言がその後の人生行路の運命的分水嶺となり、
私的には劇的なドラマを紡ぐことになろうとは思いもよらなかった。
ところが、そうこうしているうちに、1982年春になって一大事件が発生した。アルゼンチンが、パタゴニア沖合いに浮かぶ
フォークランド諸島(スペイン語名はマルビーナス諸島)に軍部隊を上陸させたことから、英国と戦争に突入してしまった。
その頃の経緯に少しだけ触れておきたい。1981年12月から軍事政権を率いていたレオポルド・ガルティエリ大統領は内政での国民の不満を
そらし、軍政存続のために大きな賭けに出た。即ち、1833年に英国に占領され実効支配されていたマルビーナス諸島へ1982年4月2日
「ア」部隊を上陸させた。英国主張マーガレット・サッチャーはこれに大軍をもって応じ、本格的な近代戦争が勃発した。
だが、同年6月14日「ア」国軍の降伏で幕を閉じ、同月17日にガルティエリは失脚した。その後を継いだのはレイナルド・ビニョーネ
であり、彼は国民に民政移管を公約した。
「ア」と英国の戦争のため、漁業学校幹部の日本への招聘計画も、その後の現地への調査団の派遣計画も見合わせざるをえな
くなり、時が突然止まってしまったかのように計画は大幅に狂ってしまった。ところが、戦争は意外にも思っていたよりもずっと早く
数ヶ月で決着をみた。「ア」の敗北をもって終結した。だが、当時の軍事政権への国民の批判の高まりなどにより国内情勢が不安定であったため、すぐには
調査団を派遣できる状態ではなかった。
「ア」の国内情勢がようやく安定したところ、学校関係者の日本招聘を実行することになった。先ず招聘した相手は、漁業学校の
オルティス校長(海軍退役大佐)と航海学担当のコランジェロ教授(海軍退役中佐)の幹部2名であった。その意図するところは、
日本の漁業教育事情やレベルについて理解を深めてもらい、少しでも交渉のハードルを低くするためであった。要するに、
良い意味で関係者をいわば「洗脳」するという作戦であった。
来日早々、水産庁国際協力室を窓口にして同庁幹部への表敬訪問を手始めに、日本の水産行政や漁業政策・事情一般についての
オリエンテーションを施し、それらへの理解を深めてもらうことにした。都内では「東京水産大学」(現東京海洋大学)の視察、
近郊では三崎の「神奈川県立水産高校」の教育施設・実習機材、
を案内した。また、JICAの「神奈川国際水産研修センター」の沿岸漁業などの研修施設 (管理棟、各種実習施設、研修員のための食堂・宿泊施設など
を含む) や小型漁撈訓練船などを案内した後、沿岸漁業・養殖・水産加工などの集団的技術研修の概要などの説明を提供した。
また別日に、新幹線にて下関方面に向かった。水産庁所管の「水産大学校」では、航海・漁撈関連の各種実習施設や機器の視察と
各種AV教材を用いた漁業教育法についての説明などを受けた。また、漁網製造会社を訪問し、オッタートロール網などの
大型曳網実験装置付き水槽での実際のデモンストレーションを見学した。その後は門司に移動し、大手民間水産会社の自前の漁船員
養成学校などの教育施設や実習機材を視察し、民間部門における漁業教育訓練事情全般について学んでもらった。私はそれらの
視察の全行程に同行し、道すがら通訳を介しながらであるが、彼らの知的好奇心から発せられる多くの質問に答えながら、
日本のいろいろな社会文化事情について丁寧に説明した。そして、先ずは良好なコミュニケーションに心掛け、互いの距離感覚を縮め、
信頼を醸成できるよう努めた。かくして、日本の漁業教育の概要、その実際の教育環境やレベルについて多少はインプット
することができ、大まかなにせよ日本事情についての理解を深めてもらうことができた。
私自身にとっても、彼らへの同行は大いに有益なものとなった。個人的な普通の見学の場合であればそこまで奥深く足を踏み込め
ないと思われる。漁業教育施設の内部へ深く立ち入り、各種実習機材・機器や訓練船などを見学することができ、水産教育に関する知見を
深める絶好の機会となった。水産大学校では「チュニジア漁業訓練センター」プロジェクトの運営でお世話になった漁具漁法担当の前田弘
教授や深田耕一助教授に中の中まで案内してもらった。また、「JICA国際水産研修センター」では、同チュニジア・プロジェクトで
調査団長を三度も引き受けてもらい現地へご一緒した森敬四郎氏が、奇遇にも水産庁からJICAへ出向し同センターの所長を務められていた。
余談だが、水産研修センターの食堂で昼食と取ることになり、森所長からの特別の配慮として、オルティス校長らに「特大のビフテキ」
を振る舞っていただき、熱烈歓迎の意を表していただいた。だがしかし、校長らはビフテキには全く手を付けなかった。私は、
「所長の厚意による特別なおもてなしです」と一言だけ軽く語りかけたものの、それ以上勧めることはしなかった。その当時、私には
何故そうなのか全く解せなかった。その半年後に協議のためアルゼンチンに初めて訪れた時、その謎が解けた。校長にその理由を改めて
問うて彼の答えを引き出そうと尋ねた訳ではない。そのエピソードは次節に譲ることにしたい。
かくして、1983年3月になって、プロジェクト方式技術協力について協議するために初めてブエノスアイレスへ向かうことになった。
当時私の水産室勤務は丸3年が経ており、通例ならば人事異動があってもおかしくはない時期であった。だが、どういう訳か4年目に
入ってもそのままずっと水産室で業務を続けることができた。そのような人事の流れのお陰で、同年中に何と3回もアルゼンチンを往復し、
ついに「ア」側との交渉を取りまとめ、プロジェクト成立に漕ぎ着けることができた。詳細は後に述べることとして、初めてのアルゼンチン
への出張は感動と感激の連続であった。
面識のあるオルティス校長らが待ち受けると思うと少し気が楽であった。それに入団同期の河合恒二君がJICA事務所に勤務して
おり、内心大いに当てにしていた。生まれて初めて南米大陸へ足を踏み入れ、憧れのブエノスアイレスに降り立った。ブエノスは青少年時代
から憧れていた大都会であった。若かりし頃、南米航路の船乗りになって、パナマ運河を経て南下した後リオ・デ・ジャネイロに寄港し、
ブエノス港に錨を降ろして南米文化に浸ることを長く夢見ていた。殊に1950~1960年代に南米航路に就航していた「あるぜんちな丸」や
その姉妹船「ぶらじる丸」の終着港であった。バリグ航空にてロサンゼルス、リマを経由してサンパウロへ、そこで同航空の別便
に乗り換えブエノスに到着した。35時間以上の長旅であった。かくして、青少年時代から数えれば20数年の歳月を経て、ついにブエノス
の地に足を踏み入れることができた。感涙、また感涙であった。
調査団を乗せた車は、幅100メートルもあるという市街中心部を貫く「ヌエベ・デ・フリオ(7月9日)大通り」をゆっくりと走り抜けた。
そして、「サン・マルティン広場」に面する名こそ立派な「クリジョン」というホテルに投宿した。クリジョン・ホテル
や広場界隈に建ち並ぶ、「南米のパリ」のような建物風景をしみじみと見渡して鳥肌が立った。興奮冷めやらず、万感の思いがこみ
上げてきた。「ついにブエノスに来ることができた!」。正直これがブエノスの中心部界隈にたたずんだ時に去来した偽らざる心境であった。感無量であった。
別日の夕刻に、サン・マルティン広場から始まる、ブエノスきっての歩行者天国「フロリダ通り」に団員らで足を踏み入れてそぞろ
歩きをした。ブエノスを象徴する華やかな通りに、心は跳ね躍り高揚しぱなっしであった。
特にクリジョン・ホテル界隈は華やかなパリ風情を漂わせていた。そして、ブエノスに暫く滞在した頃には目が少しずつ
慣れてきて、ブエノスの街風景に中に自身も同化して行いったが、感動感激の思いは冷めるどころかさらに増幅した。
さて、調査団は先ず海軍本部を表敬訪問した。本部は大河ラ・プラタ川の河岸に築造されたブエノスアイレス新港にほど近い
ところにあった。白亜の大きな建物で、その上層階からはラ・プラタ川や港湾施設の全貌を見下ろせることができた。
海軍本部前の階段を登り切った正面入り口付近でオルティス校長は待ち受けていた。調査団が遅れて到着すると、自身の上官に当たる
現役の海軍少将を待たせることになるので、腔腸は少し気をもむ風であった。顔の表情からそれが読み取れた。会議室に通され、現役少将で
ある教育総局長や同局顧問らと初対面の挨拶を交わし、調査団の目的、団員構成、日程予定などを説明し、今後の協議の進め方などについて
念入りに確認し合った。
ところで、1976年のJICA入団同期である河合君がJICA事務所に着任してまだ一年も経っていなかった。彼は、「日本メキシコ百人
交流計画」によりJICAからメキシコへ語学留学する機会に恵まれたこともあって、スペイン語が堪能であった。彼が調査団の
公式協議にほとんど付き添ってくれたことで、非常に心強かった。彼とオルティス校長とは、JICAによる訪日招聘やプロジェクトの
予備的打ち合わせなどで、日頃から何かと事務所で接点があり、親しい間柄になっていた。彼と校長に信頼関係が構築されていた
ことから、プロジェクトに関する協議で壁にぶつかる局面では、その信頼関係と語学力に大いに助けられることとなった。
海軍教育総局は、「国立漁業学校」の他に、「国立商船学校」、「潜水艦学校」など20以上の海軍教育機関を所管し、その教育行政を
統轄していた。当時アルゼンチンはなおも軍事政権下にあった。議会は閉鎖され、「フンタ・ミリタール」という陸海空の3軍の要職者
で構成される「軍事評議会」が国家の最高意思決定機関となっていた。その下に各省庁の行政機構が
あったが、省庁の要職ポストはほとんどが陸海空軍出身の高級将校たちで占められていた。さて、
マルビーナス戦争後失脚したガルティエリ前大統領に代わり就任したビニョーネ大統領がその評議会議長の職にあって、同評議会が
政権を全面掌握していた。なお、ビニョーネ大統領は1984年に民政移管することを公約していた。だが、国民からの強い批判にさらされ、
大統領選挙・国政選挙は公約よりも前倒しされ、1983年10月30日に実施された。そして同年12月にラウル・アルフォンシンが大統領
に就任した。JICA調査団が同年3月に訪れた時には、国政選挙のキャンペーンが佳境にあった頃で、市内の至る所にポスターが貼りつけ
られていた。
さて、アルゼンチン海軍の軍人や関係者は日本に対して親近感を持ち合わせていた。それには訳があった。日露戦争に先立っての出来事
であるが、アルゼンチンはイタリアにたまたま軍艦の建造を発注していた。他方、日本は日露戦争に備え艦船増強のため、軍艦2隻の
譲渡を要請していた。アルゼンチンはその2隻を日本に融通することに合意した。
かくして、開戦直前に、大日本帝国海軍は1903年に「ア」海軍から買いとり、「日進」、「春日」(いずれも同型で装甲巡洋艦)と名付けていた。
「ア」海軍での「日進」の艦名は「モレーノ」といった。
東郷平八郎提督が率いる旧日本帝国海軍は、日本海海戦当時、2艦は「日進」、「春日」の艦名の下で連合艦隊の一主力艦として
参戦し活躍した。他方、同海戦で艦隊の旗艦を務めた戦艦「三笠」には東郷平八郎が座乗した。また、アルゼンチン海軍大佐のマヌエル・
ドメック・ガルシアも観戦武官として乗艦し、その戦いぶりを観戦をしたという。後で知ったが、ラ・プラタ川のデルタの一角にあって
ブエノスの近郊に所在するティグレという町に「アルゼンチン海事博物館」があり、そこに日露戦争関連資料が展示される。その中に
ガルシアが帰国後に著わした「日露戦争観戦武官の記録」(全5巻)があるという。オルティス校長からは、「ア」海軍では現在でも
日本海海戦における戦法について講義していることを何度か聴かされた。余談だが、校長は招聘訪日時、わざわざ横須賀に
ある「三笠」の船舶博物館を訪ねている。日本海海戦では少尉候補生として山本五十六も乗艦していたという。
暫くして、ブエノスを後にして、漁業学校が所在するマル・デル・プラタに飛行機で移動した。ブエノスの南東約400kmの距離にあった。
大西洋に面する大きな商業港であり漁港でもあった。先ず、市街中心地からほど近くに所在する漁業学校を訪問した。
マッチ箱を縦に立てたような、古ぼけた小さなビルが学校校舎にあてがわれていた。初めて案内された時は、正直なところびっくりした。
3階建てで、教室は3,4室ほどであり、一室20人ほどで一杯になる狭さであった。
機関部員養成のための機械・電気実習室の機材には見るべきものは無く、いずれも錆びついたエンジンとパーツのように見えるものが
床や長テーブルに並べられていた。余りに質素な施設と機材は想像を超えたものであり、仰天して言葉もでなかった。
それでもアルゼンチン側のプライドの高さには仰天するばかりであった。日本人の感覚からすれば、漁船の船長や航海士、
機関長や機関士の船舶運航の国家海技資格を付与するための教育を施すための学校と呼べるような施設には到底見えなかった。
日本がここで漁業技術指導を行いレベル向上を目指すのであれば、少なくとも日本の水産高校や高等商船
学校のような施設、実習機材、訓練船が必要なことは一目瞭然のように思えた。
ところで、アルゼンチンでは船舶運航者の国家海技資格の付与は海軍の専権事項であった。その海技免許は、商船・漁船・
河船の3つのカテゴリーに分かれていて、いずれも海軍管轄下にある個々の船舶職員養成機関(国立商船学校、国立漁業学校、国立河川学校
など)によって付与される。その3つの船舶類型別に、さらに航海士と機関士の養成に分かれる。それらの船舶職員はさらに
漁船規模別に分かれる。漁船は大きさによって3つのカテゴリー、即ち沿岸漁船、近海漁船、遠洋漁船に分かれている。
漁船を運航し漁撈活動に従事したい船舶職員は、この漁業学校に入学し3類型の漁船の船長や各等級の航海士、漁船の機関長や各等級の
機関士の資格を取得するのが一般であった。もちろん、教育機関に修学しなくとも、船舶職員の国家資格試験に合格すれば海技資格
を取得できる。
さて、プロジェクト調査団は、学校内の小さな会議室で小テーブルを囲み、膝と肘を突き合わせながら打ち合わせをした。
時に環境を変えて気分一新して協議するため、市内のホテルの会議室を借り上げて、10数名の関係者が真剣な協議を重ねた。
当方の出席者は、団長の元水産庁次長恩田氏、水産庁国際協力室小圷室長代理や文部省職業教育局からの団員、下関の水産大学校前田弘
教授など総勢5名、先方はオルティス校長、ジャベドニ副校長(海軍退役中佐)、総務課長(海軍退役少佐)、航海学・漁具漁法・漁獲物処理の担当
教授らであった。
漁船運航者の海技資格制度について再確認をしながら、資格授与に当たって学生が法令上履修しなくてはならない座学
や実習の詳細(シラバスなど)、特に単元とそれらの単位数やそれらを定める法令規則などを調査した。また、プロジェクト方式技術協力の
プロトタイプの概要として、長期専門家の派遣制度や分野の事例、「ア」側の担当教授(カウンターパート)らの日本での技術研修
制度、協力分野の技術指導に必要とされる資機材の供与などについて詳しく説明した。また「討議録」(Record of Discussions;
通称R/D)と呼ばれる、プロジェクトの成立合意の証しとして署名される文書のひな形を示して、その詳細をも説明した。その他、
通例プロジェクトの協力期間は5年間が想定されていること、専門家に付与されるべき
特権や免除(所得税などの免除、生活のために持ち込まれる物品に対する課税免除など)、日本から毎年無償供与される資機材に
対する消費税(IVA)の免除、「ア」側が履行すべき専門家の住居や医療保険サービスに関する提供などについても説明した。技術協力プロジェクトとは
いかなるものか、「ア」側にイメージが十分培われるよう説明を尽くした。
また、日本の協力の仕組みについても触れた。無償資金協力と技術協力との連環性、一体性についてである。アルゼンチンの一人
当たりの年間国民所得は高ことから、「一般」無償資金協力の対象国ではなかった。だが、水産分野においては特別の予算枠が認め
られていた。即ち、「ア」国のような国では「一般」無償援助は対象外であっても、「水産」無償援助については供与の対象国として
認められていた。その水産無償資金協力の年間予算としては当時200億円ほどが計上されていた。世界中の海に漁船を展開する
遠洋漁業国として我が国の漁業権益を確保するための特別の予算が準備されていた訳である。
無償協力と技術協力との連環性や一体性について「ア」側にさらに補足説明が必要であった。「ア」国周辺海域での漁業権益を
確保したいがためだけに、この水産無償資金協力の予算が使われるものではなかった。他国の漁業教育の場で日本の水産技術を移転するためには、それに見合うだけの一定レベル以上の教育施設や実習
機材が不可欠であった。「ア」国のように多少所得が髙い国であっても、それらの施設・機材が整わない場合には、無償供与が許容
されるというロジックであった。逆に言えば、ハード面での整備に無償資金協力を提供するということは、日本からのソフト面での
技術協力の実施が大前提となっていた。無償資金協力と技術協力とは不可分の一体をなし、ワンセットであった。両方の協力を
パラレルに押し進め、その相乗効果を高めようという訳である。
技術協力プロジェクトが長期間実施なされるとなれば、必然的に両国の漁業外交上の接点や窓口がそのプロジェクトを起点(あるいは
基点)にして、その実施期間中ずっとキープされることに繋がる。技協プロジェクトを足場にしながら、外交・水産当局と適宜接触し、
コミュニケーションを図りながら漁業権益を追求するという外交を展開しやすくなる。例えばの事例であるが、
1982年当時「国際捕鯨委員会(IWC)」が商業捕鯨を一時停止(モラトリアム)とした。日本政府はそれ以降ずっとその再開を訴ええてきた。
その間調査捕鯨を実施しながら、反捕鯨国と鋭い意見対立を取り続けてきた。その当時、IWC総会のブエノス開催も近々予定されていた。
当然、その時の議長は「ア」国の水産次官などの幹部がなるはずであった。とはいえ、国立漁業学校プロジェクトの直接的「ア」側
受益者は、無償協力も技協も「ア」海軍であった。日本側としては、それでもよしとせざるを得なかった。だがしかし、準備中の「討議録」
においては、プロジェクトの活動評価委員会のメンバーとして漁業次官官房が加わるように構想されていた。
また、当時、第三次国連海洋法会議が大詰めを迎えていた頃であり、海洋法条約が間もなく票決に付される時期であった。200海里
排他的経済水域(EEZ)レジームは間違いなく世界の海の法秩序として確立されつつあった時機であった。遠洋漁業国・日本はいずれ早晩世界の沿岸海域からフェーズ
アウトされることになるというのが世界的趨勢であった。アルゼンチン沖合の広大な大陸棚を含む200海里EEZにおける日本の漁業権益を
「ア」側と交渉する上での一つの外交カードとなること、あるいはまた交渉の接点となりうることが日本側の期待と思惑であったことは
否定できない。余談ながら、数年後の1984年に日本の総漁獲量は1,200万トンを超え、ピークに達していた。2020年ではその3分の1ほどである。
日本は35年間遠洋海域での漁獲量についても減らし続けてきた。今は昔となってしまっているのが現実である。
さて、討議録(R/D)のひな形をベースにさらにアルゼンチン側と協議を続けた。そしてオルティス校長から発せられた言葉に我々は
ひっくり返った。今回「ア」国が日本に無償資金協力を要請した学校施設はもちろんのこと、実習用機材は「ア」漁業学校の
教授や元海軍技術者らによって十分使いこなし、教育に生かすことができるというのだ。即ち、「日本人専門家を派遣してもらう
必要ではない」というのが校長の答えであった。日本人専門家の手を借りなくとも使いこなせるので、R/Dのひな形に言う技術協力プロジェクト
のための協力期間は2~3週間で十分であるという。事実上プロジェクトは必要はないことを意味していた。
日本に招聘して漁業教育事情などをつぶさに視察してもらった後における校長の見解に唖然とするばかりであった。
それにオルティス側がちらりとほのめかしたのは語学力についての懸念であった。私自身も言えたことではなかったが、
スペイン語をほとんど理解できない日本人専門家が来「ア」しても、何をどうやって技術指導できるのか、できるはずがないという
先入観というか本音があるようであった。専門家とカウンターパートは意思疎通をどう図るのかと、暗黙的にオルティスは疑問を呈していた。
日本側がプロジェクトの長期の実施を推奨することに困惑の表情が読み取れた。
私的に、それについて予め答えをもっていた。チュニジア・プロジェクトでの経験が生きた。「その点については心配には及ばない、
双方のエキスパートは英語でもって意思疎通、技術の受け渡しや協業ができるのではないか」と、河合君を介して即座に切り返した。
「ア」側の「教授」と称されるカウンターパートらには英語が堪能であるはずなので、何か問題でしょうかと問い直した。
オルティス校長は、はっと気づいたようで、「カウンターパートは英語を理解できない」が故にコミュニケーションを取ることが
できないとは到底反論することはできなかった。プライドが邪魔して「英語はできない」とは口が裂けても言えなかったはずである。
それを見越して、そう説明した。オルティス校長はコミュニケーションについて二度と口にしなかった。だが、私的には内心では、
日本人専門家は果たしてどれだけ英語に堪能であることか、そちらを深く憂慮していた。
さて、協議のこう着状態から一旦離れ、ヒートアップした頭をクールダウンさせる意味からも、調査団員は漁港周辺の魚卸売市場での
取り引き事情視察も精力的に行った。漁港のすぐ近くの後背地に確保されている学校建設予定の敷地に立ち入ったり、
漁港内の漁船専用泊地に係留されている色分けされた漁船やそれらの装備などを岸壁から視察した。船体が全体的にオレンジカラー
に塗られた数トンの日帰り操業用の小型零細漁船、レッドカラーに塗られた一週間操業の中型漁船、その他1カ月以上操業するという
遠洋漁船の三種類型の漁船の他に、魚市場や漁船へ砕氷を供給する製氷施設などを見て回った。その他、漁港の隣接地に
シーフード・レストランが集積されるという商業的コンプレックスの建設予定地などにも立ち寄った。
また、「不毛の大地」と称されるパタゴニアの沖合に広がる大陸棚の上部水域で操業する中型・大型漁船の漁業基地となっている
地方都市プエルト・マドリンへ視察にでかけることになった。先ず大西洋岸沿いに飛行機でトレレウまで飛び、そこから車でマドリンへ。
マドリンはブエノスから南へ1000kmほどの距離にある大西洋沿いの漁業基地であり、またボーキサイト精錬の大基地でもあった。近海・
遠洋漁船の操業事情などを視察した。そして、折角の社会・自然見学の機会でもあったので、海洋・陸上野生生物の楽園とされるバルデス半島を訪ねた。
オルカ、アシカ、ミナミセミクジラなどの生息地として有名である。そこで生まれて初めてホエールウオッチングの機会を得た。我々の乗るパワーボートの下を
クジラが悠然とくぐり抜けた。急に浮上してボートを転覆させるのではないかと恐怖心を抱いたが、杞憂であった。よく見ると体中クジラミ
だらけで、その自然の姿に親しみ感じた。
休題閑話。プエルト・マドリンからマル・デル・プラタへ帰った我々は、再び校長らと協議を始めた。最大の懸案はプロジェクトの協力期間であった。
校長はその後海軍本部の関係者らと協議したのであろう、ほんの少し譲歩案を提示した。専門家の技術指導を受けるとしても2,3
ヶ月もあれば十分である、との見解であった。日本に招聘し、社会文化や水産教育事情などに関する理解がやはり多少は深まった
ことが、オルティス校長らの心情に好影響を及ぼしたと、ポジティブに受け取った。招聘作戦はそれなりに意義があったと思った。
だがしかし、海軍本部の現役幹部との内輪での協議を踏まえての事であろうが、校長は協力期間についてガードが固かった。
私は担当者として、河合恒二君の全面的なバックアップに助けられ、時に彼に全面的通訳をしてもらって、オルティス校長と
膝詰談判を繰り返し説得する努力を続けてきた。そして、現地調査が間もなく終了し帰国する間際においても、やはり「日本人専門家
の協力を得るとすれば、2~3ヶ月もあれば充分であり、機材の使い方などを十分習熟できる」との回答。当初はゼロ回答
であったところからすれば、大きな譲歩であった。校長は真にこれで最終的な妥協をしたかったのであろう。だが、日本側にとっては余り
にも短過ぎた。「ア」側にとっては、自らの技術力に対するプライドを押し殺しながら、例え数ヶ月であっても日本の専門家による
技術指導を受け入れることは、それなりに苦渋の選択であったのであろう。海軍教育総局幹部や校長らが長期のプロジェクトに後ろ向
きであったのは、漁業学校の教育現場において教授らがスペイン語の十分できない日本人専門家から指導を受けることにかなり抵抗感
があること、また英語で十分なコミュニケーションが取れないことを曝け出すことになれば彼ら自身のプライドを傷つけることに
なるとの憂慮を抱いているのではないかと直感していた。
いずれにせよ、オルティス校長が海軍本部幹部から引き出した譲歩案であったが、翻ってみると「5年間」の技術協力などは
とても受け入れられないことを示唆していた。校長は討議録のひな形につき大きな異論も示さなかったものの、「5年間」の協力期間
だけは最後の最後まで見解の相違は埋まらず、今後の大きな懸案事項となってしまった。根底にある「ア」側のプライドの高さ、
立ちはだかるハードルの高さを思い知らされた。そして、協力期間に関する見解の大きな隔たりを抱えたまま帰国することになった。
協力期間につき、5年間でなくとも少なくとも数年への歩み寄りがなければ、日本側は無償協力も技術協力も実施に踏み切れないことを意味していた。
今後この溝を埋めるためにどう説得すればよいのかを気にしながら、ブエノスを後にしてニューヨークに向かった。
生まれて初めてのニューヨークであった。ケネディ国際空港から市内に向かった。ハドソン川が近づくにつれ、マンハッタンの
摩天楼が車窓から見えた。だんだんと大きくなって来た。テレビや写真でよく見かけるスカイスクレーパーの風景を車窓越しに遠望して
いた。ハドソン川に架かるブルックリンの大橋を渡った。青少年の頃、船乗りとしてパナマ運河を横切り北に針路を取り、ニューヨーク
の突堤に船を横付けにし、下船した暁にはセントラル・パークや五番街界隈をそぞろ歩きをする、そんな単純な夢を見ていた。
大橋の先には、マンハッタンのハドソン川沿いに櫛の歯のごとく幾つもの突き出た埠頭を眺望することができた。
今では想像する他ないが、大西洋横断の豪華定期客船が摩天楼の下に停泊する波止場風景を頭の中で思い描いていた。
「ついにマンハッタンに立つことができるのだ!」と心の中で叫んだ。
ブルックリンの橋を渡りながら、マッチ箱を縦長に立てたようなガラス張りの国連本部の高層ビルを眺めていた。
「私が国連に送ったあの履歴書はどうなっているのだろうか」と自問した。「日本人の海洋法担当法務官ポストは今頃どうなって
いるのだろうか」と思いつつ、橋を渡り終えた。
我々団員は、気後れもせずお上りさんになって、エンパイヤーステートビルにも昇り、鳥の如く空中散歩を楽しんだ。五番街の大通りに出
て空を見上げた。見上げればほとんど空は存在せず、ビルが両側から倒れかかってきて、後ろにひっくり
返りそうであった。自由の女神像が遠目に見えるマンハッタン最南端の岸辺に辿り着いた。折角だからと、発着場に足を向けフェリーに
乗船しようとしたが、酷い寒波が来襲していたため、団員の誰もが体を凍りつかせていた。余りの寒さに耐えられず、乗船を諦め皆して
すぐ近くのカフェに逃げ込み、身体を温めるのが精一杯であった。
翌日、ニューヨークを飛び立つと、再びブエノスで積み残した懸案を思い出してしまい、どんな策があるのか思い巡らせた。
フライトの中で一策にありつこうとしたが、ビールとワインの酔いが襲ってきて、そんな悩みを頭の片隅に追いやってくれた。
大船に乗ったかのように気分が高揚し始め、ブエノスでの美しい風景やアルゼンチン・タンゴの鑑賞などを想い出していた。
そのうち、懸案などどうでもよくなったが、決意を新たにしたことが一つあった。先の「ホンジュラス水産資源調査」で現地に赴いた折
スペイン語の学習に目覚めたが、今回のブエノス出張でその学習への本気度を高めた。それに必死に取り組むことの絶対的必要性を認識した。
NHKのスペイン語基礎講座での独習やJICAのスペイン語研修基礎コースへの参加など、スペイン語に前のめりになる機会は意外と早く
やって来た。
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