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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8節 アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する


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     第7章・目次
      第6節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第8節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第9節: アルゼンチンへ赴任する



  「アルゼンチン国立漁業学校」の建設に対する無償資金協力の基本設計調査から数か月後、三度目のアルゼンチン渡航の機会が巡って来た。漁業学校の施設や実習機材の基本設計が一通り終わった ので、スペイン語版の基本設計報告書案をもって「ア」側関係者に説明を行なうことになったのである。無償資金協力調査部から 「業務調整」の任務を仰せつかった。そして、そのタイミングに合わせて、技術協力プロジェクトの公式の「討議録」案 (Record of Discussions; 通称「R/D」と呼ばれていた) を提示して協議に臨むこと、そして最終的な合意と署名を目指す ことになった。

  私は、オルティス校長とまだ満足の行く合意には達していなかった協力期間につき、日本側関係者の事前了解の下「3年間とする」 との案をしたためていた。大幅な日本側の譲歩案であったが、それでも最終合意に至るかどうか、交渉しなければ分からないことであった。 さらに、私は、協力期間につき副案を諮り、それについても関係省庁の了解を取り付けていた。 かくして、無償資金協力の「基本設計ドラフト説明調査団」と技術協力の「R/D協議調査団」の都合二つのミッションの団員を兼ねて、1983年 10~11月のほぼ一か月間の長丁場の予定で、3回目となる南半球への出張に出立した。1983年の1年間に地球を3周することになった。 何故ならば、ブエノスアイレスと東京とは地球のほぼ裏側にあった。

  基本設計の対象となった学校施設の内容や規模、訓練船を含む実習機材の内容や規模につき、調査団はボニーノ海軍教育総局長や彼の 顧問、オルティス校長などの主要関係者に説明した。そして、同報告書ドラフトについて大きな修正箇所もなく、「ア」側はその基本設計に基本的に 了承した。そのことを書面で取り交わした。かくして、ドラフト説明の任務は最初の1週間ほどで完遂された。団員はOCS設計と日本水産からの団員数名と私であった。

  他方、そのミッションが終わる頃、技術協力の「R/D協議調査団」がブエノスアイレスに到着した。既に「ア」入りしていた私は、同 技協調査団とブエノスで常宿のようにしていたクリジョン・ホテルで合流した。調査団の構成は、元水産庁次長の 恩田団長(初回調査団の団長でもあった)、水産大学校の前田弘教授(初回時の調査団員)、水産庁国際協力室長補佐の小圷氏、中内の4人であった。 思い起こせば初回の調査団の折には、オルティス校長は技協プロジェクトそのものを、そもそも受け入れるつもりはないとの スタンスであり、協力期間は「ゼロ回答」であった。それが、同調査団の帰国直前になって「2~3か月間」 でもよいと、ほんのわずかながら譲歩を見せただけであった。

  二回目の基本設計調査団の折には、校長と私は膝詰談判で、河合君を入れて、非公式にいろいろ説得を重ねたが、「5年とする」 ことに強く難色を示していた。しかし、左記調査団の帰国直前になって海軍上層部に諮った結果として、校長は2~3年の協力期間 でもよいと大幅な歩み寄りの姿勢を示していた。今回の公式討議録案に関する本格的な交渉でどうなるか、前途多難な交渉が予想され気をもんでいた。 今次の三回目の「ア」訪問時において早々に手渡した案には「協力期間5年」と記入されていた。大幅譲歩の姿勢をもって、その 5年に歩み寄ってくれるのか否か、一方で武者震いしながらも、他方で胃が痛くなるような心境にあった。

  JICA事務所で、河合君を介して、オルティス校長と私とで差し向かいで真剣に協議を重ねた。団全員で協議するよりも、オルティス校長 としてはやりやすく、また軟化もしやすいと慮ってのことであった。 先に提示しておいた公式討議録案には、当然のこととして多くのプロトタイプの条項が含まれていた。専門家の所得税免除、 住居に関する便宜提供、医療費の負担など「ア」側に課される多くの義務条項が盛り込まれていた。校長は「ア」側が履行できそうに ない幾つかの条項については削除してほしいと主張した。しかし、当方は、それらの条項は技術協力プロジェクト全てに 共通しているプロトタイプなものであること、また基本的に全ての対象国に納得してもらっているものなので、削除する ことは難しいとの立場を貫いた。押し問答が続き、「海軍教育総局や法務部局の幹部らは納得しないであろう」と、校長はいかにも 困惑した様子であった。

  他のプロジェクトでの実態を踏まえ、例えば、日本側において、住宅借り上げ費も医療費も実際は負担するつもりであるから、 何ら心配することはなく、条項をそのままにしてほしいと説得した。だが、校長は切り返して、それならばなおさらのこととして、条項を 最初から削除してほしいとした。条項を残す理由がないという主張である。「ア」側に負担を求めないというのであれば、 「条項は不必要であり削除しておくのが妥当である」とのスタンスである。将来関係者が人事異動となり、事によっては条項だけが一人 歩きすることを怖れたのであろう。 校長の論理は何ら間違っておらずその通りであった。校長は一事が万事このような調子であった。翻れば、オルティス校長は 履行を確約できる「ア」側の義務条項についてはしっかり履行するつもりであるとの基本姿勢であった。真面目に対応しようという校長 の誠実さが現われていた。私的には彼の道理をよく理解できた。「ア」側の最後の極めつけは、「プロトタイプのこれらの条項を そのままにするというのであれば、海軍本部法務部局などからの了解は到底得られない」とも断言した。

  デッドロックに乗り上げるなか、互いの本音を匂わせながらさらに前のめりの談判を覚悟した。JICA本部でこのプロジェクトを 今後も担当し運営管理するのは私自身である。「今ここで表明している日本側の見解が将来トラブルの種にならないように取り計らう ことを約束する。万が一トラブルが発生した場合は、担当者として責任をもって対処 するので、心配せずこれら全ての条項をあるがままに受け入れてほしい」と説得した。校長は一時は歩み寄る姿勢を見せたが、彼の 決心はつきそうになく、止む無く協議を中断し休憩を取った。

  可なりの時間をおいて再開した。さらに踏み込んで説得を試みた。プロジェクトを開始することになれば、「コーディネーター として私自身が赴任したいと思っている。帰国後は、JICA本部にその赴任を願い出たい」と考えている。実際に赴任することになれば、 「トラブルの種になることを、当地において、私自身の手で直接的に未然に防止することができる」。また、 「言質に齟齬が生じないように最善の努力をするので、安心してほしい」と説得した。 ここまで踏み込まなければ、デッドロックを打開できないと考えてのことであった。ここまで言い放つことができたのは、二人に信頼 関係が醸成されていたからと信じたかった。二人の関係の橋渡しと信頼醸成を手助けしてくれたのが、同期の桜の河合君であった。 彼がいつも真摯に寄り添ってくれることなく単に通り一遍の通訳をしてもらっていただけであれば、交渉はどうなっていたことであろうか。 交渉は空中分解していたか、あるいはもっと深刻なデッドロックに乗り上げていたかも知れない。河合君の真剣な骨折りと助力に 感謝してもしきれなかった。

  日ア協力しての訓練船による漁労実習訓練だけでなく、航海シュミレーション装置において複雑で多種多様の操船パラメーター を設定して航行や操船訓練をカウンターパートと協働して学生に教授するにも相当の年数が必要であること、漁具模型の回流式実験装置 を用いての漁業教育レベルの向上を十分達成するには数年は必要なこと、また5年間の協力期間であれば総計10名ほどのカウンターパート の日本研修を実現することができること(毎年2名程度の研修受け入れ枠が想定されること)、また視聴覚機器をフルに使いこなして 教材を制作し漁業教育の向上を図るには相当長い所要期間が見込まれること、また今後技術協力を進める過程で追加的に必要とされる 機材も毎年検討され供与されることになること、さらにその追加的供与は協力期間が終了するまで継続されることなど、あれこれと 並べ立てて説得を重ねた。

  さて、オルティス校長は協力期間について海軍本部に再び相談をもち上げてくれた。見解の差は埋まらないまま帰国の時が近づき、 時間切れが間近に迫っていたなか、「5年間でなくとも、少なくとも3年間に歩み寄れないか、上層部と相談してもらいたい」と、 説得した結果である。校長は海軍本部へ向かった。結果、校長は海軍上層部から歩み寄りを取り付け、協力期間3年間という正式の答えをもち帰った。 ここにきてようやく期間について基本合意ができ胸を撫で下ろした。

  だが、日本側の目標年数はあくまで5年間であったので、協議はそれで終わった訳ではなかった。日本側にとっては、協力期間3年は譲歩できない 最低ラインであった。だが、プロトタイプの5年間の協力期間にできるだけ近づけるために、事前に関係省庁と練っておいた、例の最後の交渉 カードをいよいよぶつけることになった。譲歩を引き出すための究極のカードといえた。

  その切り札とは、「3年後に日アで中間評価を行ない、その結果を踏まえ双方協議して、期間をあと2年間延長することを可能と する」という文言を付け加えるという案であった。「ア」側が、プロジェクトを評価した結果として、さらに2年間の実施を望む ことになれば、そうすることもできるというもの。2年間の延長の可能性を最初から排除することはないのではないかという我が方からの 提案であった。日本側からすれば、事実上、最大5年間の協力期間に合意したとも受け取れる ものであった。「ア」側からすれば、5年間に合意したわけでなく、期間は原則3年であるが、双方が合意すれば(実質的には、「ア」側が 肯定的になれば)さらに2年間いつでもそのまま実施できるという余地を留保しておけることになる。

  私的には、無理強いて頑なまでも5年間に固執するつもりはなかった。では何故そんな案を発案したのか。プライドが髙いアル ゼンチンだとしても、プロジェクトの3年後の終了時点において、「ア」側はほぼ間違いなく2年間の延長を望み、かつその継続実施に 同意するに違いないと、確信に近い思いで憶測していた。さて、オルティス校長は、海軍本部と相談の結果として、「3年間+中間 評価を経て双方合意の上、もう2年間実施することができる」との案につき、交渉の最終コーナーを回ったところでようやく 了承してくれた。こう着状態の長いトンネルを脱し、実質的に5年間のプロジェクトに道を拓いた。恐らく前代未聞の協力期間の 設定となった。

  更に、もう一つの前代未聞の条項を討議録案に書き加えていた。プロジェクトの「最初の1年間はプロジェクトの準備期間とする」 ことが案として明記されていた。こんな条項の明文化は、JICAでもこのプロジェクトが最初であり、かつ最後であったに違いない。 オルティス校長においては交渉初期段階のこととして、スペイン語で充分コミュニケーションがとれない日本人専門家には 技術指導を全うすることは難しいとの思いがあったはずである。校長の脳内にあるその確信的思いをプロジェクトの実践を通じて 打ち砕いて行くためには、私的には何としても最初の一年間を準備期間として位置づけておく必要があった。チュニジア・プロジェクト から学んだ最大の教訓をここで実現しようとした。

  例えば水産大学などで漁具漁法について何十年も教鞭をとり、しかもスペイン語に長けている教授であれば、漁業学校にいきなり 赴任しても、翌日から技術指導や協働することも可能かもしれない。だが、そんなことは殆ど期待できそうもない。 スペイン語能力が乏しいか、無いに等しい専門家の場合は、現地においてさえスペイン語に必死に取り組む必要がある。そうでなければ、技術指導 や協働は到底おぼつかないはずである。最初の一年間を準備期間と位置付けられれば、専門家はノイローゼに悩まされることなく 語学に必死に取り組むことができ、いわば猶予と余裕のある一年となろう。また、語学向上に必死になれる期間ともなるはずである。 私的には、「ア」国の技術力とプライドの高さを鑑みながら、日本側の指導体制を初年度の一年間をかけて確立しようとした。 日本人専門家が「ア」側関係者に疎んじられないようにするための配慮でもあった。技術移転のための指導体制の確立や 語学向上などを図るための諸準備に資することができる、願ってもない助走期間にできるはずである。

  準備期間は技術指導や語学力アップだけではなかった。学校の教育制度や海技資格制度はもちろん、シラバス・履修単元・教科書 の内容やレベルなどの諸事項を十分理解すること、カウンターパートへの技術指導や協働のための詳細計画を作成し、そのための あらゆる諸準備をも行なうこと、無償供与の実習用機材の次年度からの詳細利活用計画を立案すること、また今後の技術協力 のために調達すべき実習用機材の詳細計画とそれらの技術的仕様(スペック)の詳細を詰めること、その他あらゆる諸準備を行なう ためである。JICA専門家としての業務経験が初めてであり、かつ漁業教育機関などでの指導経験がないか、もしくは不慣れな専門家にとって、 いきなりフル活動に入ることはとても酷なことである。ウォーミングアップし、十分にスタンドアップする適度な助走期間は必要 不可欠であると確信していた。これもチュニジア・プロジェクトから学んだもう一つの最重要の教訓であった。

  さらに、住居・生活環境などを整え日常生活そのものを安定させるには、どんなベテラン専門家でも数ヶ月間は必要であることは自明である。 本格的な技術指導や協働のフル活動に専念できるのは、やはり1年位は必死に努力してあらゆることに自身を馴致順応させる ことができるようになってからである。かくして、討議録案の作成時、助走期間として1年間を確保しておきたいと提案し、 関係省庁から予め認められていたものである。既述の通りチュニジア・プロジェクトの運営上の経験と教訓などを100%生かして、 今回の案に盛り込むことができたものである。外務省をはじめ水産庁、JICA本部水産室においてそれらのことをよく理解してもらえたことを、 本当に有り難く感じた。

  かくして、今回の一ヶ月近くの「ア」滞在中都合二つの案に「ア」側の了承がえられた。即ち一つは基本設計報告書ドラフトにおいて、 もう一つは技協プロジェクト実施のための「討議録」案においてである。後者については恩田団長とボニーノ海軍教育総局長の間で署名された。ついに、ここに技協プロジェクト が成立した。無償協力プロジェクトにおいては、帰国後しばらくして、外務省の所管の下で「ア」への無償援助の実施に関する閣議 決定が行なわれた。 そして、在「ア」日本大使館と「ア」外務省との間で無償協力に関する口上書が交換された。早晩建設を請負う日本のゼネコンを 選定するための入札が執行され、工事着工の運びとなる。私の次の仕事は、合意された協力分野の長期専門家(総勢5名)を あちこちから推薦してもらい、その派遣手続きの実務をこなすことであった。

  ところで、署名された討議録のオリジナルを大事に抱えてブエノスから帰途に就いた頃、「リーダー」と「業務調整」の役目を担う 長期専門家をどう人選するか、脳裏に去来していた。「業務調整」の専門家は、少なくともJICA職員からリクルートして派遣するのが ベストに違いなかった。その思い描く答えは明らかであった。プロジェクト形成の経緯を誰よりも熟知し、「ア」側関係者との信頼 関係を構築し、さらに水産プロジェクト運営経験を有する私をおいて誰がいようかと思っていた。かくして、業務調整の任 に就く長期専門家として、「ア」国に赴任したいと渇望し、赴任を現実のものにしようと帰国後奮闘した。即ち、プロジェクト調整員 としての赴任に真っ先に名乗りを上げ、かつ人事上の根回しを始めた。JICAスペイン語研修もついに上級コース(6ヶ月)へと 進級していた。オルティス校長に大見栄を切ったことでもあり、現地においてプロジェクト運営に携わり、全関係者とベクトルを合わせ てプロジェクトの成就を成し遂げたかった。



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      第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第8節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第9節: アルゼンチンへ赴任する