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    第23章 パンデミックの終息後の海外渡航を夢見る万年青年
    第6節 インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を訪ねて


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     第23章・目次
      第1節: 新型コロナウイルスによるパンデックの終息を待ち焦がれて
      第2節: 「ニカラグア運河」を追いかけて再訪を夢見る
      第3節: カナダ東部海岸諸州の海・運河・船の風景を探し求めて
      第4節: 中国の京杭大運河(揚州など)を再び訪ね歩く
      第5節: アフリカ大陸最南端の喜望峰と「ガーデンルート」の海を訪ねて
      第6節: インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)、スパイスと古要塞を訪ねて



  ポルトガルとスペインの西欧列強諸国は、かつて香料(スパイス)の独占的交易による権益を巡り熾烈な争いを展開した。その 中心的存在であったのがモルッカ(モルク・香辛料)諸島のテルナテ島とティドレ島であった。東回りでのアジア、特にインディアス、 モルッカ諸島到達を目指したポルトガルは、1512年にはすでに同国人がテルナテ島に来ていた。ポルトガルは、バーソロミュー・ ディアスによる1487~1488年におけるアフリカ大陸南端の回航、1498年にはバスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓に成功した。 ポルトガルは、その後マラッカへ到達し、1512年にはモルッカ諸島(テルナテ島)に出現していた。

  他方、スペインはマゼランによる西回りの世界周航を支援した。フィリピンでのマゼランの死去後船団を引き継いだフアン・セバスティアン・デ・エルカーノは、 ついに「トリニダード号」と「ビクトリア号」の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島の一つであるティドレ島に辿り着いた。 その後「ビクトリア号」だけが25トンの香料を積んでインド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上し、 1522年9月6日ついに出港地のスペイン・セビーリャへ帰着し、世界一周を果たした。「トルデシリアス条約」では 大西洋上におけるポルトガル・スペインの分界線はまだしも明確であった。だがしかし、当時緯度はかなりの精度で測定できても、 経度はあやふやであったので、地球の裏側での分界線は曖昧であり、はっきりせず、モルッカ諸島がどちらになるか、 両国はその後支配を巡り争いを繰り広げた。そして、その後さらにオランダ、英国もスパイス交易の権益獲得争いの舞台に登場した。 当時、胡椒や丁子などのスパイスは超高価な商品であった。

  ポルトガル人による喜望峰の回航・大西洋からインド洋への海の通路の発見、インド航路の開拓、さらには大西洋から南米大陸南端の 海峡の発見と太平洋への航海は、世界の歴史を変える大転換点となった。中南米、アジア地域・諸国の多くが西欧列強による略奪的 植民地支配の草刈り場となって行った。この二つの発見・出来事ほど、世界に歴史的大変革をもたらしたものはなかったであろう。

  マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記されたカタイ(中国)・黄金の国ジパング(日本)をはじめ、香料を産するモルッカ諸島、 特にテルナテ島とティドレ島の産する莫大な「富」に突き動かされて、西欧列強諸国・探検家・商人らはそれらが存するアジアを 目指した。船出したのはコロンブスであり、バスコ・ダ・ガマをはじめとする数多の航海探検家たちであった。かくして、「大航海時代」 に彼らを突き動かしたモルッカ諸島、特にテルナテとティドレの2島を是非とも訪ね、ポルトガル人らの遺して行った足跡である廃墟のような 古い要塞跡やいろいろなスパイスの生える赤道直下の栽培地などを巡ってみたい。スパイス・アイランドとはいかような島嶼なのか、 この目でしっかりと観てみたい。

  今は大まかなモデル的な旅程案を模索し、今後いろいろ情報を入手しながらより詳細な具体案を構想することにしたい。 一般的な渡航のフライトルートは成田~ジャカルタの往復。ジャカルタでは、旧市街地のコタ地区にある「海洋博物館」や 「パサール・イカン(魚市)」、中近東のダウ船のような伝統的木造船である「ピニシ船」の溜り場であるジャカルタ漁港の波止場 を再訪したり、その他まだ見ぬ「国立博物館」、「ジャカルタ歴史博物館」などを訪ねたい。 「海洋博物館」に訪問した経験があるが40年ほど前のことである。ジャカルタを最後に訪れたのは、JICS勤務時代の1990年代 中頃のことで、それさえもゆうに25年以上も経っているので、モルッカ諸島への旅の機会を捉えて、「海洋博物館」だけでなくジャカ ルタのコタ地区などを新たな気持ちで再訪し、新たな発見に出会えることを楽しみにしたい。猛暑でなければ同地区をじっくりと 歩いて散策して回りたい。

  因みに、「海洋博物館」は1977年に開館した。その建物は、1652年にオランダ東インド会社が倉庫用に建てた4つの建物のうち、 3つが利用されている。1700年代に数回改装されたという。オランダ時代は、東インド会社の主な貿易品であった胡椒やナツメグ などの香辛料やコーヒー・紅茶、衣類などが、西欧やアジア地域に出荷されるまでここに保管されていた。 博物館のすぐの南側に建つ高さ12メートルの塔(「Menara Syahbandar」という)は、1839年に東インド会社によって港内監視のために 建てられたもので、1886年まで船舶交通の監視に利用された。

  「海洋博物館」では、インドネシア各地域の実物やレプリカの船やカヌーのほか、航行用器具、伝統的な釣り具、海の絵画など、 インドネシアの海の歴史にまつわる数多くの陳列品を巡覧することができる。その他、一本の巨木から作られた全長11メートルの パプアの伝統船(ジュクン・カレレ Jukung Karere)、モルッカ(マルク)諸島の伝統船(コラコラ Kora kora)のレプリカ、 南スラウェシのブギス族によって貨物船として利用された帆船(ピニシ Pinisi)のレプリカ・錨・舵・双眼鏡・大砲など、、 16世紀のスマトラ・アチェ王国の世界初の女性海軍大将マラハヤティの肖像画なども展示される。 マルコ・ポーロやその他の世界の海洋探検家に関する展示室もある。

  1974年にオープンした「ジャカルタ歴史博物館」は「ファタヒラ博物館」とも呼ばれる。建物は1627年にオランダ東インド会社によって市庁舎として建てられた もので、1913年まで市庁舎として使われていた。その後、日本植民地時代には日本軍の倉庫として、インドネシア独立後は 西ジャワ州知事やジャカルタ特別州知事のオフィスとして使用された。館内にはポルトガル船のレプリカも展示されるという。 余談であるが、インドネシア各州の伝統的家屋や博物館を集めたテーマパーク「タマンミニ・インドネシア・インダ」がジャカルタ郊外に あるが、そのうちの一つであるバリ風建築の「インドネシア博物館」には伝統的な漁業に使う道具、伝統的な水上交通手段の ピニシ船のミニチュアなども展示される。

  ジャカルタに渡航するに際し、当世において留意すべき点が一つある。2020年初期に始まった新型コロナウイルスCOVID-19の パンデミックについてであるが、2022年中・下期日本では第7波が襲い、国内感染ピーク時には毎日数十万人が罹患した。 インドネシアへの渡航の難易度は日本とインドネシアでの渡航規制状況による。
インドネシア入国での規制としては、出発の14日以上前にワクチン接種2回が完了していることを示す接種証明が必要(2022年9月現在)。、 日本への帰国での規制としては、出国前72時間以内に受けたPCR検査結果としての陰性証明書(※2022年9月7日から)、 ただしワクチン3回接種済みの場合は不要である(2022年9月現在)。これら規制は今後の感染状況などをみて緩和される予想である。 いずれはパンデミック以前のように何の渡航規制も課されないないことを期待される。 なお、モルッカ諸島(テルナテ、ティドレ島など)への渡航には、インドネシア政府からの特別の上陸許可証が要るのか否か確認 する必要がある。

  さて、テルナテへのルートについて。ジャカルタと、モルッカ諸島(マルク諸島Maluku、かつての香料諸島)の中心都市があるテルナテ島との間を最短距離で往復したい。 例えば、金曜日深夜ジャカルタ発、翌土曜日午前6時過ぎ現地到着となる。ジャカルタ~テルナテ直行便は「バタビア航空」他が 運航している。その他ローカル航空会社による近隣便がある。
・ ルートとしては、スラウェシ島のウジュンパンダン(マカッサル)を経由してテルナテへ直行、またはウジュンパンダンから スラウェシ島北端のメナド経由、メナドからテルナテへは「スンパティ航空」の定期便が運航されているようだ。
・ また、ジャカルタからアンボン島のアンボンを経由して、そこからテルナテへ。「ムルパティ航空」からのチャーター機(プロ ペラ双発)が、日に1便就航するという。アンボン~テルナテでは、不測の事態・機体修理のため突然キャンセルなどもありうる。
・ その他、シンガポール(またはマニラ)経由で、スラウェシ島のマナドへ、 そしてテルナテ島へというのもありうるか。 ・ 初めての経験として、ジャワ島東端の港町スラバヤ港からフェリーでジャワ海を横切り、スラウェシ島のウジュンパンダンへ、 そこからフライトでテルナテのルートも楽しそうである。
なお、アンボンはテルナテ島の南方500kmほどに位置するセラム島の南方沖合に浮かぶアンボン島の都市である。

  テルナテ島は「ハルマヘラ島(Halmahera)」の西岸沖合10kmにあり(地図参照)、周囲40数kmの火山島である。 島周囲には舗装道路が敷かれ、2時間もあれば一周できる。テルナテ島(空港あり)とティドレ島(空港なし)は南北に隣り合い、 テルナテ島の南には幅約1kmの海峡を挟んでティドレ島がある。この2つの島は大きさも地形もよく似ていて、双子に喩えられる。 両島の東側にはハルマヘラ島が横たわる。両島ではそれぞれの王国が治め、かつてライバルであった。テルナテ島には、街から 比較的に近い場所に、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人が築いた砦・要塞(Benteng ベンテン)跡が遺る。また、 テルナテ島内にはバスが走り、テルナテに港がある。テルナテの町はずれの高台にはかつてのスルタンの宮殿があり、今は博物館と なっている。テルナテは北マルク州の最大都市、人口21万。テルナテ都市圏は港が所在するナバスティオン港までの10kmに広がる。

  ティドレ島への渡海と散策も考えたい。テルナテから朝9:00発のフェリーでティドレに向かう。1日6便のフェリーが 就航している。テルナテのフェリー乗り場は、16世紀の古い港があったところで、近くに「ベンテン・カリマタ」 と呼ばれるポルトガルの海の砦跡が保存されている。かつてテルナテの中心部はこの辺りであったのか。 ティドレ島上陸後、ソアシオの町の県庁(カブパテン)辺りへ探訪するのも策である。ティドレは人口5万程度という。

  ハルマヘラ島へはテルナテ島からスピードボートで渡海できる。例えば、テルナテから08:40発、シダンゴリ行き フェリーに乗船してみる。シダンゴリはテルナテの対岸のハルマヘラ島における交通のジャンクションにある。 シダンゴリから何をどうするかのプランは今は何もない。

  テルナテ島における年間の気候および平均気象について。ベスト時期を選びたいが、選択肢はすくない。テルナテ島では、 夏は短く暑い、冬は短く暖かい。年間を通じて蒸し暑く湿度が高く本曇り状態である。 1 年を通して、気温は 24度Cから 31度Cに 変化するが、23度C以下または 32度C以上になることは滅多にないという。

  さて、最初にポルトガル、そしてスペインが、さらにオランダがモルッカ諸島に来航し、スパイスの独占的交易を巡る権益や 島嶼支配を巡る熾烈な攻防の歴史が展開された。その攻防史について俯瞰してみたいが、十分な知識がないので、 書物をひも解き学んだ上でのことにしたい。ここでは若干の史実を列挙したい。 例えばの書物として、生田滋著、「中公新書大航海時代とモルッカ諸島」に詳しい。数世紀に渡る節目節目の重要史実を紹介しながら、 旅への興味を倍加させたい。

  テルナテ島は丁子の数少ない産地として知られ、ヨーロッパ人が到達する以前から中国人やマレー人の 商人が訪れていた。テルナテ島はモルッカ諸島の政治経済の中心的存在であった。 初めてテルナテ島を訪れたのは、マラッカから渡海して来たポルトガル人探検家フランシスコ・セラン(Francisco Serrão)ら であった。彼らはモルッカ諸島への探検航海中にセラム島の近くで難破し、地元住民に救助されていた。テルナテのスルタン (Abu Lais)は彼らの困窮ぶりを耳にして、1512年にテルナテ島まで連れて来させた。それを機にスルタンは、ポルトガル人と同盟を結び、 同島に砦を築造することを許可した。砦は1522年に築かれた。しかし、ポルトガル人のスルタン廃立への関与や、宣教師たちの強引な布教活動などのために 住民の怒りを買い、ポルトガル人は1575年に島から追放された。そして、後の1605年には、オランダ人が砦を築き、テルナテ島を 占領した。同島住民の反乱が起きたが、1683年のスルタンの降伏により、オランダ東インド会社による支配が確立した。 (注)テルナテ島には、木材 (黒檀,チークなど) 、コプラ、香辛料 (ナツメグ,コショウ,チョウジ) などを産する。

  マゼランはこの当時友人のフランシスコ・セランを頼りにして世界周航に乗り出し、かつセランがいるはずのモルッカ諸島を 目指して太平洋を必死の思いで航海をしていた。だが、セブ島沖のマクタン島でマゼランが落命した後、船団の指揮を取ったのは エルカーノであった。モルッカ諸島を目指して航海、しかし半年ほど見つけられず、1521年11月ついに同諸島に到達した。 そして、ティドレ島の港に錨を降ろし上陸した。当時治めていたスルタンが両手を挙げて迎えた。当時西欧諸国では香料は仕入れ値の 1000倍もの価格で販売されていた。ポルトガル人は1512年すでに隣りのテルナテ島に渡来していた。だが、テルナテのポルトガル人 の貿易拠点は放棄されていた(ポルトガル人は1575年に島から追放された)。エルカーノには好都合であったといえる。

  テルナテ島とティドレ島は元々常にライバル関係にあり、強い対抗意識をみなぎらせていた。スペインに支援されたマゼラン船隊が ティドレ島に到達したことで、ポルトガルのテルナテの秘密、モルッカ諸島のそれは破られた。セランはマゼランの 死去と同じ頃に亡くなったといわれる。世界一周の大航海のきっかけをつくった2人の主役は、2度と会うことなく最期を迎えていた。 トリニダード号とビクトリア号はわずか40日間で積める限りのスパイスを積み込み、トリニダード号は東回りで太平洋へ、ビクトリア 号は西回りでインド洋、アフリカ大陸回航をめざして船出した。トリニダード号はポルトガル人に捕捉・略奪され沈められた。 エルカーノは1522年9月6日スペイン・セビーリャへ帰還した。さて、ティドレ島はスペインの香料諸島の中心となった。

  ポルトガル人に対抗してティドレ島に拠点を置いていたスペイン人が、1606年に、ポルトガル人がテルナテ島に築いた 砦を占拠し、そのスルタンを捕まえてマニラに移送した。 他方、オランダ人は、1599年にモルッカ諸島に進出していたが、1607年にテルナテ島の一部を占領した。その後、1663年に スペインがテルナテ島から撤退するまで、同島はオランダ領とスペイン領に二分された(スペインはまた1663年にティドレ島からも 撤退した)。そして、オランダはテルナテ島の 丁子を伐採し他所に移植したりして、丁子の生産拠点をアンボン島などの管理しやすい島に移したため、丁子の貿易で栄えモルッカ 諸島の政治経済の中心を担っていたテルナテ島は、その座をアンボンに譲り渡すことになった。結局その後、モルッカ諸島の中心的 位置を占めていたテルナテとティドレは、オランダの介入とともに、やがてその地位をアンボンに奪われて行った。

  旅の話に戻るが、テルナテでは要塞跡を是非とも訪ねたい。テルナテでは4カ所の要塞跡があるという。オラニエ要塞、カラマタ要塞、トルッコ要塞、 それにガマラマ要塞である。テルナテに総計4,5日滞在すれば十分回り切れよう。 周囲44キロという小さな島にこれだけの要塞があるということは、それだけこの島が、ポルトガル、スペイン、オランダ の権益確保にとって重要であり、丁子などというスパイスを手に入れたいとする欲望がいかに強かったかを示している。 しかも、これらの要塞の主が、その時の軍事的力関係によって目まぐるしく変わっていったのである。 今はいずれも廃墟となり静かにたたずんでおり、訪れる人も極めて少ない。故郷から遥か遠くに離れた数多の人々が、 夢と欲望に支えられ、命をかけた航海や敵対勢力との戦いのみならず、慣れない土地での日々の辛苦の生活を乗り越えてきた。 それを思うと、果てしない欲望を追い求める人間の行動力、そしてそれに付きまとう苦しみや悲しみを感じさせる。

  ティドレ島への渡海について。同島の中央にそびえるガマラマ山は裾野がなだらかに広がる典型的なコニーデ型の火山だ。 正午時にテルナテ中心部のバスティオン港発のフェリーに乗ると、船上からのテルナテの市街やティドレ島、その間にある小さな マイタラ島の景色を楽しむことができる。あっという間の30分ほどでティドレ島に到着する。それもそのはず、テルナテ、ティドレ の両島の距離は、直線距離ではわずか1キロ程度である。 この二つの島が、それぞれ王国を持ち、お互い憎み争い合っていたというのが不思議に思えるほど、余りの近さである。 そんな両島の情景を思い浮かべると、スパイス・アイランドへの旅浪漫が掻き立てられる。

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