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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第1-2節 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)


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     第6章・目次
      第1-1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その1)
      第1-2節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い(その2)
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
         [資料] JICA奉職と海洋雑学の10年(1976年~1987年)の歩み(略史)
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す



  さて、研事部担当者は時に自らを「プログラム・オフィサー」と称し、途上国の人づくりに貢献していることを誇りにしていた。 だが他方で、オフィサーとは聞こえが良いが、実際にこなしている仕事の内容からすれば、「技術研修員のための研修ツアー・エージェント」 のようなものであると、自嘲気味に言う先輩もいることをずっと後で知った。時を経て経験を積むにつれ、確かにそういう面もある と意識すればするほど否定し難いものとなった。

  JICA本部から研修員への最初の実務的なコンタクトは、旅行エージェントを通じて、「PTA方式」という航空券送付方法をもって、 研修員に来日用航空券を手配することから始まる。本人が受領した否かは暫くしてから受領の連絡を受ける。来日後すぐに、滞在費、支度料などの支払い を実行する。JICAの国際研修センターか民間ホテルなどの滞在施設の手配も「オフィサー」の務めである。国内移動のための 旅費支給や航空券・鉄道切符などの手配もそうである。 全国の医療機関で通用する「医療カード」(全額日本政府が支払うことを証するカード)の類いの交付、時に地方の研修先への国内移動のための 同行など、旅行エージェントの担当者や添乗員のような仕事にどこか似通っているところがあることから、「オフィサー」には旅行 エージェントという意味合いが秘かに込められていたのである。

  来日直後には、当座1か月分の滞在費(日当、宿泊費)、支度料、通勤用の交通費などの支給を直接研修員に対して行なう。それには、 予め計算書を起案し会計課に出金を依頼しておく必要がある。会計課でそれらの現金を受け取って、来日当初の滞在先である市ヶ谷の「東京国際研修センター」まで持参した。 滞在費の中からセンター宿泊費を予め控除して(同センターに会計課から直接支払い済み)、日当などを支払うが、それでも10数 人分の最初の支給額は、現金にして100万円近くに上ることもあり、若い担当者には半端でない現金をカバンに入れてセンターへ向かった。

  センターまで電車と徒歩で4、50分はかかるが、途中で盗難に遭わないよう、また紛失しないようにカバンを大事に抱えて センターへ辿り着く。そして、自己紹介とウェルカムスピーチをした後、必要なオリエンテーションを一通り終えてから、やおら 一人ひとりの顔を拝しながら現金封筒を手渡した。研修員はそれで旅の疲れも不安も解消され、満面の笑顔となる。各人から 領収書を回収し、会計課にそれを当日中に提出し、確実に手渡したことの証とする。また、翌月からの滞在費の支払いのために、 各員には個人の銀行口座開設とキャッシュカード発行手続きを取るようお願いする。その手続きについては、日を改めて監理員に 銀行へ同行してもらう。後年には現金封筒による支給方式は解消されたが、当時は現金を直接手渡すのもオフィサーの重要な ミッションであった。職員の給料さえも銀行振込ではなく、まだ手渡しで現金封筒を受領する時代であった。

  集団研修コースの運営が東京都内か近傍にて実施される場合は、JICAの「東京国際研修センター」を宿泊地としてもらい、そこから 4,5ヶ月間研修機関などへ通ってもらった。先ず、最初の一週間は、同センターで諸々の手続きや日本の社会文化事情などの オリエンテーションを受講してもらう。オリエンテーションはそれを専門的に担う公益法人にお任せする。引き続いて、一か月ほど システマティックに提供される日本語研修を受講してもらった。その後、ようやく研修機関へ毎日電車通勤し、詳細なカリキュラムに沿って、 本格的な座学や実習を受講することになる。

  研修機関が地方にある場合には、プログラム担当者が旅費を算出し、会計課から出金の上、切符と引き換えに旅行 エージェントに支払う。そして、研修員は名古屋や大阪などの「国際研修センター」へ移動するが、ここで新幹線乗車を初体験することに なる。ここでも、研修員は満面の笑顔を浮かべて車窓からの風景を楽しむ。1977~80年の頃である。 プログラム担当者が時に同行するが、たいていは東京駅ホームにおいてセンターの担当者とバトンタッチをした。

  通訳兼監理員の「コーディネーター」が常時コースに張りつく。平たく言えば、研修監理員は、プログラム担当者と分業しながら 二人三脚で、研修員と向き合い、あらゆるお世話をする。研修現場における座学・実習の専門的な通訳業務をも担う。 研修員の生活面にまつわるさまざまな支援やトラブル・シューティングも監理員の務めである。研修員が体調不良になったり、 病気の場合は、研修先と協力して、病院へ同行したり、時に医者との面談の仲立ちや通訳などをする。ホームシックにかかったり、時には 深刻なノイローゼに陥る研修員も中にはいる。あらゆる悩みの相談に応じ、体調管理への目配りなども怠らず、つねに寄り添う。 研修員には全国医療機関で使用可能な「健康保険加入を証明する医療カード」が特別支給される。彼らは、それを大事に所持する。何故なら、 それがあれば日本という異国の地で何の経済負担もなくほとんどあらゆる治療が可能となり、安心して研修に励むことができるからである。

  研修員が地方に研修旅行に出かける時は、その全宿泊費、交通費などを計算し、現金で支給した。JICA研修施設が地方 にない場合には、民間ホテルでの宿泊の手配、ホテル料金の交渉などを行ない、また時に現地に同行し関係者と直接必要な打ち合わせ を行なう。1977年当時は、まだファックスもインターネットもなく、全て電話か郵便での通信連絡であり、手間暇かかる時代であった。

  イラクからの研修員3名が鳥取市内の民間工場での研修に臨んだが、そのホテルの部屋が狭くて気に入らず、強い不満を訴えた。 滞在費を増額した上で、もっと快適なホテルへの転居か、3人でアパート暮らしをしたいと要望した。特に滞在費の支給額アップを執拗 に迫られ、ついに在日イラク大使に泣きつかれた。止む無く研修員からのクレームを受けて立った。課長と共に大使館へ出向き、イラク大使に その支給基準などを説明し、日本政府としては全研修員共通の支給基準につき変更できかねることを申し入れた。「どうしても不満であるというなら、 母国へお帰り頂くほかない」とさらに申し入れようとしたが、それには及ばず大使の納得を得ることができた。 そんなこともプログラム担当者の務めであった。

  ある時、搭乗者の中に数名の来日研修員が含まれていた日航機が、バンコクでハイジャックに遭遇したことがあった。大勢の乗客の中に、 来日途上のエジプト人の女性研修員の他何名かの研修員が巻き込まれ、外務省・JICA内でも大きな騒ぎとなった。だが、幸いにも無事 に解放され、特別機で来日したが、着の身着のままであった。研事部は、来日後の研修員に精神的ケアや生活支援を手厚く行なった。特別給付金を用意して、女性監理員 などに付き添ってもらい、デパートなどに衣類や日用品の買い出しに出向いてもらった。

  余談だが、監理員から聞いたエピソードであるが、サウジアラビアからの研修員が、同じコースの研修員らを招待して、 夜のネオン街を歩き回ったらしく、1億円ほど自腹を割いて派手に飲食したことを自慢げに話をしていたという。監理員は信じられず、 どうせアラブ風ホラ吹き話として取り合わなかった。ところが、半分冗談で「その証拠を見せてくれるなら、信じる」と一言口を滑らせて しまった。彼はおもむろに銀行預金通帳を取り出して、印字された9桁の数字を見せて自慢顔をしていたという。

  プログラム担当者の仕事にはまだまだいろいろあった。集団研修コースが無事終了すると、修了式を挙行しなくてはならない。式場での 国旗掲揚や研修員・来賓者などの椅子のセッティングを見届けること、修了証書を準備するのも仕事であった。司会進行を務め、 理事から一人ひとりに証書を手渡してもらう。理事のスピーチ原稿も準備した。その後、懇親会を執り行い、 プログラムの修了を出席者全員で祝福した。JICA職員が思う以上に、研修員にとっては、その証書は母国では重みがあることを後で知った。 彼らはそれを持ち帰れるという安堵感、誇り、喜びで満面の笑顔を見せてくれた。些細なことであるが、懇親会の経費の支払いのための 支出依頼書作成事務も担当者の務めであり、また各講師への謝金などを毎月定期的に銀行振り込みするための事務も担当者の重要な 役目であった。

  自嘲気味の「プログラム・オフィサー」ではあったが、そう言ったこまごまとした雑事のように見えることの積み重ねを経て、 研修員の滞在生活が、安全・安心で快適なものなものになって行く。また、研修自体も円滑に進んで行くことに繋がる。 研修員が、美味しい食事を食べ、快適なベッドで安眠でき、毎日無事に通勤し、研修先でしっかり学べることは、日本での滞在を 有意義なものにする第一歩といえる。JICAは研修員の私生活と研修を全面的に支える。彼らの私生活に干渉 することはまずないが、研修も生活も快適で円滑に進むように支える。ざっくり言えば、彼らに必要とされる滞在生活の知恵、その他の 有益な情報を提供し、研修と私生活を有意義にすること、それがプログラム担当者と監理員の願いでありミッションでもある。

  彼らはJICAからの日当を節約して、貯金に回し、米国ドルにして持ち帰りたいという。そのために、食事を少量化したり抜いたりする。 時に様子がおかしいので訊いてみると、朝食を抜いていることが多いという。それは体調を壊すことに繋がる。監理員はそれにも気を配る。 些細なことや面倒なことでも、研修員を支えるために監理員はいつも親身に寄り添ってくれる。それが研修員の滞在中の安全・安心に繋がる。

  我々はこうして分業しながら研修員を支えるが、研修員受け入れと言う国際協力はまさに大勢の関係者が協力し合う分業で 成り立っている。一人の担当者ですべてをやりこなして研修を完結することなどできない。一人では大したことはできない。 研修を支える関係者は一集団コースにつき50名を下らないであろう。彼らが役割分担しながら、自らの持ち場に おいてなすべきことを精一杯こなすことで、研修員を支えている。しかも、それらの個々のパーツはバラバラではなく、JICAはそれらを システムとして組み立て運営し提供している。そして、そのシステムの司令塔に立つのがプログラム・オフィサーであり、 コース担当者であると言えよう。それは少々自惚れ過ぎであろうが、少なくともそういう誇りだけは胸にしまいこんでいたと言いたい。

  コース担当者や監理員は、研修員の日本での私生活と研修を支えるキーパーソンに違いない。彼らが研修で最も頼り とするのはJICAである。JICA、即ちその背後に控える日本政府が彼らのスポンサーである。そのスポンサーの命を受けて、 担当者と監理員は、研修員のあらゆる悩みに耳を傾け、相談に応じ、寄り添う存在である。「旅行エージェント」的であろうとも、 今そこでやるべきことをしっかりこなしていくことが大切であった。さらに言えば、全ての研修関係者による努力が合わさって、 総体として日本が提供する技術研修や国際協力の一部を形づくっているといえる。 そこには、総力を上げて、研修員を支えつつ、研修を遂行する日本独自の組織的で実効性のある体制が整えられている。

  総力をもって支えるのは研修関係者だけではない。実は、研修員は多くの一般の日本人と接し、時に大変お世話になっている。 研修員は、日常的に接する日本人を通じて、また何かの実際上の体験を通じて、日本人は何者であるかを理解している。五感で日本を感じ学んで いる。日常生活で日本人の親切に触れたり、文化的な交わりをしている。日本人の物の考え方、価値観を知る多くの機会に日頃から 接しているといえる。母国での社会的価値観と比較しながら、日本の社会と文化を学ぶことになる。日常的に彼らの心の内でいろいろな 有益な化学反応を誘起しているのかもしれない。日頃一般の日本人との触れ合いを通して、研修テキストにはない多くのこと体験し 感じ取っていることは間違いない。また、親日的になれる機会もあちこちで体験していることであろう。

  青少年時代かつて船乗りになって海外で異文化と向き合うことに憧れをいだいていたが、JICAでの最初の職務を通じて、その夢が 初めて叶った。叶った場所は、何と海外ではなく日本国内においてであった。JICAの研修事業部門で働きながら、異文化と真剣に向き 合うことになった。毎日のように新しい出会いや発見があり感動があった。多くの途上国の研修員と触れ合い、お世話することもできた。 コース担当者の仕事はこまごまとした雑務雑事が大半であったかもしれないが、多くの関係者と分担し協業しながら研修員を支え、 「人づくり」と友好増進の一端を担うことができた。日本における空間と時間を彼らと共にしながら、 彼らの生活と研修を支え、総体としてその滞在を有意義なものにすることができた。少なくともその一翼を担うことができた。 それが最大の喜びであり誇りとなった。その上に、月々の給金と年2回のボーナスまでいただいてきた。これに感謝せずして、何とするか という思いであった。

  研修員は将来いろいろな領域で活躍し、自国を支え指導する立場の人にもなろう。ずっと親日的となってくれること、そして 両国の懸け橋となってくれることを真に期待したい。研修の効果は速効ではありえない。帰国後何年も何十年もかけて国づくりの 一翼を担うことになろう。人材育成の成果が目に見えるまでは、実に長い道のりを経ざるをえない。当時、毎年5~6000名の研修員を 受け入れていた。既にJICAの帰国研修員は延べ40~50万人にも及ぶことであろう。彼らの親日的な言動は家族に伝播し、また友人や 同僚にも伝播するかもしれない。帰国研修員は、日本にとってかけがえのない人的財産である。かくして、 日本は世界中の研修員を通して「友好」と「技術」の種を播き続けてきた。将来更に種が播かれより多くの人的財産が育って行く ことを期待したい。



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