江戸時代、海上での大量物資輸送の主役であったのは、弁財船あるいは千石船(せんごくぶね)と呼ばれる廻船であった。
勿論、他の中小さまざまな廻船が日本沿岸海域で縦横に活躍していた。
廻船は風任せの帆走であったが、江戸幕府はコメなどを安全で安定的に、かつ経済的に輸送するために沿岸航路を
開拓し、また安全な停泊(避泊)あるいは貨物の積み降ろしのための港を要所要所に開き置いて、廻船を
海難から防御すべく尽力を傾注した。
画像1-3は三重県・鳥羽市立「海の博物館」に展示される千石船である。展示パネルによれば、
(1)江戸時代、船の大きさを米俵を積める量で計ったことから、千石を積める船を千石船、250石積みであれば250石船と称した。
千石船の大きさは、シキで約50尺(約15メートル)、全長にあっては約75尺(約22メートル)、幅は25尺(約7メートル)である。
乗り組んだ水夫の数はだいたい20人前後であった、と記されている。
(2)西廻りの航路の開発。鉄道やトラックのない江戸時代にあっては、物流は陸上輸送ではなく圧倒的に海上輸送に
依存してきた。即ち、陸運よりも海運が発展していた。江戸や大坂・京の大都市での消費物資の輸送には大量の積み込みができる
千石船や弁財船などが利用された。
(3)特に1631年(寛文13年)に河村瑞賢によって開拓された、特に日本海から瀬戸内海を通って大坂~
江戸へと結ぶ「西廻り航路」は、その開拓以降長距離かつ大量の物資輸送のための大幹線「海の東海道」となった。
(4)また、伊勢湾口の鳥羽、安乗、的矢は、ここから伊豆半島の下田まで廻船が一気に帆走するうえでの重要な
な「風待ちの港」であった。さらには、伊勢湾奥の尾張名古屋への分岐点にも位置していたことから、
「海の東海道」の三叉路として、江戸時代を通して大変栄えていた旨、展示パネルに記されている。
[撮影年月日:2025.08.01/画像1-3出典: 鳥羽市立海の博物館][拡大画像: x29450.jpg]