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一枚の特選フォト「海 & 船」

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    「網掛突取捕鯨の祖」太地角右衛門(たいじかくえもん) 頼治の墓

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    画像2: 太地町街中の観光広報掲示板「日本遺産 鯨とともに生きる」と題する掲示板より。
    画像3: 太地家の一族が眠る「順心寺」。



    紀州の太地(たいじ)は古くから捕鯨の町・鯨類の町として全国に知られる。例えば、 1217年に、太地浦で槍や弓、刀などで鯨を捕獲した。江戸時代の1606年には、「太地捕鯨の祖」とされる和田頼元が、紀州にて、 突取式による組織的な捕鯨(刺し手組)を開始した。

    太地の街内にある「順心寺」には「網掛突取捕鯨の祖 太地角右衛門(たいじかくえもん) 頼治墓」(Grave of Taiji Kakuemon Yoriharu, a pioneer of whaling by netting and harpooning)があるが、その 墓前にある観光案内銘板には、次のように記される。

      太地捕鯨の祖、和田忠兵衛頼元の孫で、太田組大庄屋を務めていた和田角右衛門頼治は、 延宝5年(1677)に、それまで捕獲が困難であったザトウクジラに網を掛けてから銛を打つという画期的な捕鯨方法を開発しました。 井原西鶴の浮世草紙「日本永代蔵」第二巻にある「天狗は家名風車」に登場する天狗源内は頼治をモデルにしたものと考えられています。 頼治は紀州藩徳川光貞から太地姓を賜り、それ以後の太地家当主は代々太地角右衛門を名乗りました。太地捕鯨の一時代を築いた 太地角右衛門頼治は、やがて隠居して惣右衛門頼治と名を改め、元禄12年(1699)3月22日に逝去しました。
      (注)1688年の井原西鶴の「日本永代蔵」には太地浦捕鯨に関する詳細な記述が見られた。

    1675年には、和田惣右衛門(太地角右衛門頼治は隠居して、和田惣右衛門へと改名した)が網取式捕鯨を考案した。捕鯨対象の鯨種が 増え、捕鯨が急速に発展した。とは言え、捕鯨数は最高でも年300頭程度であり、同時代のアメリカ式捕鯨には到底及ばない ものであったという。そして、1683年には当該網取式捕鯨が土佐に伝えられた。

    [撮影年月日:2024.09.06/場所: 太地町・順心寺の境内にて] [拡大画像: x29367.jpg]


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