「北前船」と題する説明書きには次のように記されている。
「江戸時代初期には、「北国船(ほっこくふね)」という漕ぎ手が20人ほど必要な船が使われていたことが津軽の
円覚寺に奉納された「船絵馬」から知ることができます。また、越後能生の白山神社には「ハガゼ船」という
船首が鋭く尖った「船絵馬」があります。これらの船に替わって、「北前船」として使用されたのが「
弁才船」です。
「弁才船」は、18世紀はじめ頃から広く使用されるようになり、天保期以降は、荷物を多く積むために
船の幅を広く取り、船首の反りを強くした北前船が使用されるようになりました。その後、明治10年代には汽船が
導入されるようになり、北前船は急速に衰えていいきます。」
また、「伏木みなと北前船の商い」と題する説明書きには以下のように記されている。
「北前船は、荷物の賃送による利益を目的とするのではなく、大阪を出発してから各寄港地において、米を始めとする食料品、古着等の
衣料品等を購入し北海道に運び、帰荷として昆布やにしん等の海産物を本州に運ぶ「買積船」です。
買積船とは、遠隔地間の交信手段が無かった当時、産地と消費地の莫大な価格差により膨大な利益を上げることができました。
その一方で、海難や商品に買い手がつかなかった場合などは大損となる危険があります。
伏木では、八軒問屋として知られている「鶴屋」(堀田氏)、「能登屋」(藤井氏)を始め「塩屋」(塩田氏)等有力な廻船問屋が輩出
しました。(以下省略)」
[2012.07.11 伏木北前船資料館にて][拡大画像: x24707.jpg]
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1. 北前船の「船額 (ふながく)」。説明書きによれば、「北前船には、帆柱の前と、荷物の上に覆いかぶせた「苫屋根 (とまやね)」の間に額が
掲げられていた。この船額は、鶴屋の屋号で知られる堀田家に2枚伝わるうちの1枚。堀田光子氏蔵」。
[拡大画像: x24710.jpg]
2. 現在その住宅が伏木北前船資料館となっている秋元家がかつて所有していた北前船「長生丸」を示す「船幟」(ふなのぼり)。
港に近づくと遠くからでも分かるように船尾に掲げられた。秋元成之蔵。 [拡大画像: x24711.jpg]
3. 「北前船 錨」(江戸後期~明治期)。展示されている2本の錨は、昭和25年(1950年)頃に海上保安部による機雷掃海の際に海底から
引き揚げられたもので、北前船に使われていた鉄製の四爪(よつめ)錨である。 [拡大画像: x24734.jpg][拡大画像: x24735.jpg: 説明書き]
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4. 北前船の主要部位図。 [拡大画像: x24718.jpg][拡大画像: x24719.jpg]
5. 北前船模型の全体画像。船首部には小さな帆柱に小さな四角帆 (横帆)、さらに支索 (ステイ・stay)に取り付けた三角帆 (三角形の縦帆・
ステースル・支索帆・staysail)のような帆を装備する。
船絵馬の中にも、このような三角帆を一枚、あるいは二枚装備する北前船が描かれているものがある。また、船尾部に小さな帆柱に
四角帆 (縦帆) を装備する北前船が描かれたりもする。プロトタイプの北前船からすれば、これらの小さな四角帆、三角帆をもつものは
大変珍しいと思われるのだが、、、、。 [拡大画像: x24750.jpg]
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6. 「近世期~明治期 北前船寄港地」を示す図。大きく分けて、西廻り(北前船)と東廻り・南海路の2つの航路があった。
[拡大画像: x24712.jpg]
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7. 「北前船寄港地」の図。大阪→北海道への下り荷として大阪で買い込む商品、瀬戸内海→下関までの各地で買い積むもの、
日本海沿いの境港、敦賀、直江津、佐渡、新潟、酒田などで買い込むもの、北海道→大阪への登り荷(上り荷)として北海道で
買い込むもの (ほとんど海産物) について列挙されている。 [拡大画像: x24713.jpg]
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8. 「西廻り昆布ロード」の図。 [拡大画像: x24714.jpg][拡大画像: x24715.jpg]
[拡大画像: x24716.jpg: 説明書き(No.1)][拡大画像: x24717.jpg: 説明書き(No.2)]
説明書き(No.1):「西廻り昆布ロード -北前船に由来する北海道の昆布-」と題する説明書きには以下の通り記されている。
「伏木は歴史の古い港として知られ、江戸中期(18世紀)には、自らの持ち船で、米・茶・銅鉄器などを積み出し、各港で買積み
した商品を売り、交易する廻船問屋が台頭しました。能登屋 (藤井家)・鶴屋 (堀田家)・西海屋 (堀家)など、江戸後期には8軒問屋
(幕末には7軒問屋) といわれました。
北前船は、大坂(大阪)を出発して、瀬戸内海から日本海の各寄港地において、米を始めとする食料品、古着等の衣料品等を購入し、
蝦夷地(北海道)に運びました。そして、帰り荷に昆布やニシン(魚肥)等の海産物を買い、本州に運びました。この航路は、江戸と蝦夷地・
東北を結ぶ「東廻り航路」に比し、「西廻り航路」といわれ、伏木は、寄港地の一つとしても賑わいました。
そして、蝦夷地から長崎へ運び、中国(清国)へ輸出される航路に加え、薩摩(鹿児島)より琉球王国(沖縄)を介して、
中国へ昆布が交易された航路を合わせ、昆布ロードと呼びます。近年では、この時に富山の薬売りが果たした役割も研究されています。
この昆布輸送の中継基地となっていたところでは、現在でも地域の食文化の中に昆布がしっかり根付いており、富山は全国でも昆布
消費の高い土地柄です。」
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