画像は東京・品川区立品川歴史館 (Shinagawa Historical Museum, Shinagawa-ku) に展示される品川第六台場の模型である。
「幕末の動乱と品川台場」と題する展示コーナーに陳列されている。「品川台場の築造」と題する説明パネルによれば、
米国ペリー艦隊の来航に際し、江戸幕府は、品川沖から深川洲崎にかけての海上に、11基の台場を築造することにした。
伊豆国韮山 (いずのくににらやま)(現・静岡県)の代官・江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ) が、ヨーロッパの書物を基に
して台場造りの指導に当たった。だが、財政難などの理由によって、完成したのは第一、二、三、五、六台場、および後に
加えられた陸続きの御殿山下台場の合計6基にとどまった。
また、「英国軍艦の品川来航と防備計画」と題する説明パネルによれば、1862年(文久2年)8月、薩摩藩士が英国人を殺傷するという
いわゆる「生麦事件」(なまむぎじけん) が発生し、翌年5月には賠償金問題を巡って英国軍艦が品川沖に来航した。
幕府は、品川第四、七台場の築造の再開、さらに越中島(現・江東区)から大井村までの海岸沿いに
台場を築造する防備計画を実施に移した。だが、人足賃と石材費の高騰、長州戦争などの影響によって完成するには至らなかった。
なお、品川台場築造の土取りは、御殿山、八ッ山、高輪泉岳寺などの諸山を切り崩して行われ、最寄の海岸線から
船で運ばれた。船は「石船」、「土船」などと、運搬内容でその名が付けられた。作業人足は5,000人、船数は2,000隻にも及んだ
日があったという。
[画像撮影: 2017.1.11 東京・品川区立品川歴史館(Shinagawa Historical Museum, Shinagawa-ku)にて][拡大画像: x28224.jpg]