絵図左下隅には「大坂より松江まで航路図 江戸時代中期 手書手彩・巻子装一巻」、「神戸市立博物館蔵」と記される。
絵図上部の航路 (赤線) に沿って、右から左へ、淀川、守口、西之宮、かうべ、兵庫、和田岬などの地名が記される。
1173年 (承安3) 年、平清盛は、大輪田泊(おおわだのとまり)の大規模な修築工事を行い、会下山 (えげやま) の南にあった「塩槌山
(しおつちやま)」の土砂で経ヶ島 (きょうがしま) を築いたと伝えられる。この時に古湊川の流路を付け替えて、
旧湊川の筋ができたとする説がある。
かくして大輪田泊は、陸路・山陽道と海路・瀬戸内海航路が結びつく要所として大きく発展し始めた。
鎌倉時代には「兵庫津 (ひょうごのつ)」と呼ばれ、僧・重源 (ちょうげ) による改修が行われ、東大寺や興福寺に港
の管理が委ねられた。興福寺の五重塔なども兵庫津で得た収入を財源として建設された。
保元の乱 (1156年)・平治の乱 (1159年) に勝利した平氏は、頭領の平清盛を筆頭に、一門が高位の官職を独占した。
1167年 (仁安2年) 清盛は太政大臣なると3か月で辞任、翌年に出家し、福原に山荘を構えた。
以後、経ケ島を築いて、大輪田泊を改修し、日宋貿易に乗り出した。
大輪田泊を擁する福原は清盛にとって理想的な新都地、しかし福原遷都の翌年熱病で倒れて64歳の生涯を閉じた。
平清盛の略年史など
1156年保元の乱、1159年平治の乱。
1168年、清盛51歳の時に出家する。
1173年、平清盛が経ヶ島を築造する。
1180年、福原に遷都する。
1181年、清盛、享年64歳で死去する。
1184年一ノ谷の戦い、1185年屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する。
1192年、源頼朝が征夷大将軍となる。
1333年、鎌倉幕府が滅びる。
1338年、足利尊氏が征夷大将軍となる。
1404年、日明の勘合貿易が開始され、兵庫津が繁栄する。
[画像撮影 2012.5.31 「KOBE de 清盛2012」(2012.1.21-2013.1.14 開催)の大輪田泊会場 (歴史館)にて/神戸市兵庫区中之島2丁目]
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赤色線は平安時代ごろの海岸線。図中央に大輪田泊、その東側地先に平清盛が1173年に築造したという経ヶ島がある。緑色線は旧湊川。
経ヶ島の築造のため土砂を調達した塩槌山 (しおつちやま) のあった会下山 (えげやま) も記される。 [拡大画像: x27475.jpg]
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