西伊豆の海辺にある戸田(へだ)。戸田は伊豆半島北部中央にある修善寺温泉から西方へ路線バスに揺られ峠を越えて
一時間ほどの距離にある。駿河湾に面する漁業の盛んな漁師町である。駿河湾の海や白砂青松の砂州ごしに見る富士の山は絶景である。
「戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館」はその砂州の先端辺りにある。画像は同博物館に展示される代表的な和船・弁才船
(べざいせん) の大型模型である。説明パネルには以下のように記される。
弁才船(千石船) 栄寿丸
「ヘダ号」 (次ページ参照) の建造にも若くして参加した戸田の船大工植田儀七が、晩年に廻船問屋
井田屋(太田家)からの依頼で製作した弁才船の模型。部田神社に奉納してあったが、傷みが激しくなったため、儀三丸造船所で修理
された後に、当博物館に寄贈された。
また他の説明パネルには、「和船と洋式帆船の違い」と題して大変興味深い記述がある。即ち、洋式帆船は対風向45度まで、
和船は70度まで切り上がることができ、逆風に向けて前進できなかった訳ではない、と記される。
[拡大画像: x26548.jpg: 説明書き「和船と洋式帆船の違い」]
さらに、別の説明パネルでは、弁才船について詳しくまた大変平易な解説がなされている。
[拡大画像: x26547.jpg: 説明書き「弁才船」]
弁才船
弁才船は「千石船」とも呼ばれる一枚帆の和船です。「千石船」という名称は、千石(一石=約150㎏)の
米を積むことができたために付けられましたが、江戸時代の終わり頃には、千五百石以上の「千石船」も登場していました。
江戸幕府の成立後、江戸の町は急速に人口が増えましたが、大量の食料消費を満たすだけの生産力はありません。
そこで「天下の台所」と呼ばれた大坂から江戸へ、陸路より安い運賃で、しかも大量に運ぶことができる船が
必要となったのです。また年貢米や幕府への御用米・御用材、江戸城などへの石材の運搬にも、弁才船が
利用されました。
船体側面の菱形の垣立 (かきたつ) を特徴とする「菱垣廻船 (ひがきかいせん)」や、灘・伊丹の酒を江戸に
運んだ「樽廻船 (たるかいせん)」、日本海側の港と大坂を結んだ「北前船(きたまえぶね)」
も弁才船の仲間です。
明治維新後、長距離航路に蒸気船が就航するようになっても、安く荷物を運ぶことができる利点を生かして、地方の港ではなお弁才船が
活躍しました。しかし明治18年 (1885) の「和船禁止令」や、明治22年 (1889) の東海道線全線開通によって、しだいに姿を消していきました。
[画像撮影: 2014.11.20 戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館(Heda shipbuilding & cultural museum & Suruga-Bay deepsea
life museum)にて][拡大画像: x26542.jpg]