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「ニカラグア運河」略年史
Chronology of Nicaragua Canal

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  • 1492年
    クリストバル・コロン (クリストファー・コロンブスのこと) が4隻からなる船団を率いて、ヨーロッパからアジア(インディア)への 海上西航(西廻り)ルートを開拓するために、探検航海に出立する。即ち、カスティーリャ・アラゴン両王の承諾・援助の下、コロンブスは、 遠征隊を組織し、商業目的をもって(黄金、香料などを求めて)大西洋を西航し、インディアスへ到達する航海ルートの探求に 乗り出した。コロンブスは、この第1回航海において、カリブ海の島嶼水域にたどり着いた(最初に着達した島は現在のバハマ諸島 のグアナハニ島であった)。彼は同航海で発見したそれらの陸地をインディアス であると固く信じた。エスパニョーラ島に拠点を建設した上で、帰国の途についた。





  • 1502年9月
    コロンブスは、第4回航海において、現在のホンジュラス沖で暴風雨に遭遇した。ニカラグアとの国境近くを流れ下るココ(Coco)川の 河口にある岬を回航したところで遭難から免れた。コロンブスはこのことから ⌈神に感謝する岬⌋ (Cabo Gracias a Dios) とネーミングした。
  • 1508年
    スペインは、⌈新大陸⌋ (当時にあってはニカラグアとコロンビアとの間の陸地) に植民することを決定する  (スペインは、新大陸を、現在のパナマであるカスティーリャ・デ・オーロ、および現在のニカラグアやコスタリカである ベラグアスの2つの地区に分けた)。
  • 1513年
    1513年、バスコ・ヌニェネス・デ・バルボア (Vasco Nuñez de Balboa) がパナマ地峡 (el Istmo de Panamá) を横断し、 ⌈南の海⌋(現在の太平洋)を確認し(divisar)、その⌈発見⌋を国王カルロス5世 (el rey Carlos V)  に報告した。その中で、バルボアは運河を建設して両大洋間をつなぐことの可能性を示唆した。
    遥か遠くに位置する東洋との交易を発展させるという考えを常々抱いていたスペイン国王は、その提案に興味を示し、可能な運河ルートを提示するように命令した。しかし、バルボアは、結局いかなる偉業をもってしてもその実現は不可能であろうという結論 にいたり、その事業提案は断念された。
  • 1514年
    スペインは、カスティーリャ・デ・オーロ地域 (現在のパナマ地域) の支配強化をめざして、バルボアを更迭したうえで、 ペドラリアス・ダビラ (正式ネーム:ペドラ・アリアス・デ・アビラ) を総督として派遣する。
  • 1522年
    ペドラリアスによって派遣されたヒル・ゴンサレス・ダビラの探検隊が、現在のニカラグア湖 (Lago de Nicaragua) およびその 湖中に浮かぶオメテペ島 (Isla de Ometepe) を探検した。現在のリーバス付近で先住民族のニカラオ族と遭遇する。翌年1523年には、 太平洋岸をさらに北上しフォンセカ湾 (Golfo de Fonseca) にいたる。
    [参考]フォンセカ湾 は、当時の司教ロドリゲス・デ・フォンセカに由来する。同湾は、現在エルサルバドル、ホンジュラス、 ニカラグアの3国によって内水化されている。
  • 1524年
    ペドラリアスは、部下のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにニカラグアの支配・防衛を命じる。同年、コルドバは ニカラグアへ出発し、グラナダ (Granada; ニカラグア湖の北西端の湖畔に所在する) に最初の植民基地を建設した。 さらにマナグア湖を越え、レオン (León) にて第二の基地を建設した。なお、1527年6月、コルドバは反逆罪でレオンにて 処刑された。
  • 1558年
    イギリスの海賊が、ニカラグア、ホンジュラスなどのカリブ海沿岸に出没し始める。
  • 1567年
    スペイン・カルロス5世の後継者であるフェリップ2世 (Felipe II) は、1567年に、ニカラグアにおける運河ルートを特定するために 技術者チームを派遣した。しかし、彼らの報告では、パナマにおけるルートと同様に、ニカラグア運河の実現は難しいと結論づけられた。
  • 1572年
    イギリス人海賊フランシス・ドレーク (Francis Drake) が、ノンブレ・デ・ディオス (Nombre de Dios; 現在のパナマの カリブ海沿岸の町で、ポルト・ベロ(=プエルト・ベーリョ)の少し東方に位置する) への襲撃の途上で、サン・ファン川に侵入した。
    [参考]サン・ファン川は現在のニカラグアとコスタリカとの間にあり、ニカラグア湖へ通じている。





  • 1600年
    海賊による襲撃から防衛するためにサン・カルロス (San Carlos) に砦が建設される。サン・カルロスはニカラグア湖の南東端にあり、同湖から流れ出る サン・ファン川の始点である。
  • 1609年
    レオンがモモトンボ火山の噴火のために壊滅する。レオンは放棄され、町はスブティアバに移され再建される。火山灰に埋もれていた レオン (現在 ⌈旧レオン León Viejo⌋ と呼ばれている) は、今では発掘・整備されUNESCOの世界文化遺産に登録されている。
  • 1665年
    海賊ジョン・デービスが、グラナダ、レオン、エル・レアレッホ (El Realejo) を襲撃する。エル・レアレッホは太平洋沿岸の 小さな入り江の奥に位置する町で、レオンの北西約50kmにある。
    [参考]エル・レアレッホ: スペイン植民地時代は一大貿易港であり、また新大陸で最大級の規模の造船所を 有していた(現在はその面影はない)。新大陸とフィリピンなどの太平洋西岸諸地域との貿易を行なった大型 ガレオン船の建造で活気を呈したという。レアレッホは天然の良港となっていたこと、またその周辺において建船のための木材・労働力を 比較的容易に入手できたことによるとされる。
  • 1666年
    イギリス人海賊ヘンリー・モーガン (Henry Morgan)、マンスヴェルト (オランダ人) らが、メキシコやホンジュラス沿岸を襲撃した後、 サン・ファン川を遡上し、さらにニカラグア湖を横切り、のそ北西部湖畔にあるグラナダの町を略奪する。モーガンはこの襲撃によって海賊として一躍有めいになる。
  • 1668年
    イギリス、オランダ、フランスの海賊が相次いでニカラグアを襲撃し、グラナダは壊滅的な打撃を受ける。
  • 1670年
    海賊ガルディーヨがグラナダを襲撃する。
  • 1675年
    サン・ファン川上流域にあるエル・カスティージョ (El Castillo) にサン・ファン要塞 (正式にはインマクラーダ・コンセプシオン  要塞 la Inmaculada Concepciónといわれる。通称エル・カスティージョ要塞 Fortaleza de El Castillo) が完成する。要塞は ニカラグア湖南東端のサン・カルロスを始点にして流れ出るサン・ファン川の岸辺の高台に立つ。





  • 1748年
    イギリス軍がサン・ファン・デル・ノルテ (San Juan del Norte; カリブ海沿岸の町で、サン・ファン川河口に位置する) を占領する。
  • 1780年
    イギリス海軍は、後に⌈トラファルガー沖の海戦⌋においてめい声を上げ、その提督となるホレイショ・ネルソン (Horatio Nelson) らを派遣し、ニカラグア運河ルートを確保すること、またスペインによる ⌈新大陸⌋ での植民地支配の 分断を図ることを目指し、ジャマイカからニカラグアに出撃し、サン・ファン・デル・ノルテを占拠する。 ネルソンらの軍隊は、サン・ファン川を遡上し、現在のエル・カスティージョにあるサン・ファン要塞を占拠する。 ネルソンは、現地で病に倒れ、また転属命令もあって、要塞占拠直前に退却を余儀なくされる。他のイギリス兵らは、要塞を占拠したものの 過酷な自然との闘いに疲労困憊し、結局総員撤退を余儀なくされた。
  • 1781年
    スペイン本国からマヌエル・ガリステオが派遣され、ニカラグア湖と太平洋との間の運河ルートの調査に当たる。
  • 1786-89年
    フランス人がニカラグアに運河建設を申し出る。


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  • 1814年
    カディス裁判所 (los Cortes de Cádiz) がニカラグア運河建設令を承認する。
  • 1816年
    イギリスが再びニカラグアのカリブ海沿岸に進出し、ニカラグアにミスキート王国を建てる。
  • 1823年
    中米連合が独立する。1825年、中米連合が憲法を制定し、5つの州からなる⌈中米連邦⌋へと改組する。 (中米連邦は1838年に解体される)。
  • 1825年6月
    中米連邦がニカラグア運河を想定した運河建設法を公布する。米国クレイ国務長官は駐米大使アントニオ・ホセ・カナスに対して運河建設の 意向を伝える。
  • 1825年
    中米連邦議会 (Congreso Federal Centroamericano) の議会令により、ニカラグアでの両大洋間運河開削の準備が 進められた。
    [参考] 中米連邦(中央アメリカ連邦): 1811~1838年、中米諸国のグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、 コスタリカの5か国で構成された。
  • 1826年
    米国が、中米内のいずれかの地域に運河を建設したいという意向を表明した。
  • 1827年
    シモン・ボリバルの命により、イギリス海軍司令官ジョン・ロイドが初めて地峡ルートにつき公式に探検を行った。

  • 1829年
    オランダ人たちが運河に関する事業・運営管理権 (una concesión canalera) を取得するも、その後すぐに放棄した。
  • 1830年
    オランダが、中米連邦政府からニカラグア・ルートの運河建設の権利を獲得する。ニカラグア運河会社を創建して運河建設を試みるが、 ベルギー独立をめぐる内紛のため断念する。
  • 1838年
    1838年中米連邦が解体される。1839年には、ニカラグアおよびホンジュラスが独立する。ニカラグアは、運河建設のための支援をヨーロッパに求めた。 それに興味を示したフランスの後の皇帝が、ロンドンにて ⌈ナポレオン・ニカラグア運河⌋ (La Canale Napoleone de Nicaragua) という会社をつくった。
  • 1838-1842年
    1838年から1842年までの間に、中米連邦 (la Federación Centroamericana) 大統領の命によって、初めての部分的な 運河踏査がなされた。その責任者はイギリス技術者のジョン・バイリー (John Baily) であった。
  • 1839年
    ニカラグアおよびホンジュラスが独立する。

  • 1841年8月
    イギリスがサン・ファン川河口の港町サン・ファン・デル・ノルテを一時占領する。コスタリカ国境にいたるまでのニカラグア東部海岸全域を ミスキート保護国に含めて支配に乗り出す。
  • 1844年
    ・ 1844年、フランスがニカラグアと運河協定を締結しようと試みるが失敗にいたる。
    ・ ルイ・ナポレオン3世皇帝 (emperador Luis Napoleon III) は、パナマ運河建設着手の60年前に当たる1844年の 回顧録の中で、 ⌈運河をもって大西洋と太平洋とをつなぐという計画に対して初めから非常に 興味を抱いた。そして、この工事を行うのに最善なルートはニカラグアであるという結論に至った⌋ と語っており、 その当時からニカラグアの地理的重要性が明らかにされてきた。
  • 1845年
    ナポレオン・ガレラがパナマルートにつき詳細に調査を行った。

  • 1846年
    米国とコロンビアとの間で ⌈新グラナダ条約⌋ (Tratado de Nueva Granada)、すなわち ⌈ビドラック・ マヤリノ条約⌋ を締結する。 それによって、米国は、パナマ地峡 (el Istmo de Panamá) における通行の権利 (el derecho de vía o tránsito)、 すなわちパナマ地峡の横断交通権 (鉄道の建設権) を獲得した。 同条約の成果として、1850年~1855年の間に、パナマ地峡大陸横断鉄道 (el ferrocarril transcontinental) が建設された。
  • 1847年10月
    イギリス艦隊がミスキート王に対しサン・ファン・デル・ノルテ (San Juan del Norte) を明け渡すよう要求する。
  • 1848年
    ・ 1848年1月、イギリス軍がサン・ファン・デル・ノルテに上陸し、ニカラグア政府守備隊を追放し、再び占領する。 イギリスの植民地であった当時のジャマイカの総督名にちなんでグレイタウン (Greytown) と改称される。 ニカラグア側に対しミスキート王の領地としてその自治権を認めさせる。
    ・ 1848年1月、米国カリフォルニアのサッター・クリーク (現アマドール郡) にて金鉱山が発見される。米国西岸から東岸への 輸送ルートとしてニカラグア地峡の重要性が増す。
    ・ 1848年4月、ニカラグア政府はイギリスとの対抗上米国との関係を強化する。他国による干渉からニカラグアを保護することを 条件として、両洋間の排他的交通権を米国に付与する。
    ・ 1848年6月、米国・ニカラグアの条約に基づき、米国政府初代代表エフライン・ジョージ・スクワイアが赴任する。その後イギリス・ 米国間で両洋間横断路の利権をめぐり紛争となる。
  • 1849年
    ・ 米国人実業家コーネリウス・ヴァンダービルト (Cornelius Vanderbilt) の会社に有利なニカラグア運河に関する事業・運営管理権 (concesión) が譲渡される。
    即ち、1849年8月、コーネリウス・ヴァンダービルトが ⌈アメリカン・アトランティック・パシフィック・カナル・カンパニー⌋ を設立する。 そして、米国政府の後援を受けて、ヴァンダービルトとニカラグア政府との間で運河建設協定が調印される。 ⌈アクセサリー・トランジット運河会社⌋ が12年以内に運河を完成させること、それまでの間ニカラグア湖を利用した 通航路を運営することができる旨、合意される。

  • ・ 1849年9月、ニカラグア議会は、米国政府およびヴァンダービルトがニカラグア政府との間で締結された協定を批准する。 ニカラグア政府によって、サン・ファン・デル・ノルテ~ニカラグア湖~マナグア湖~レオン~エル・レアレッホ (現在の太平洋沿岸 港湾都市コリントの北方6kmにある。 レオンから北西約50km) を経由する運河ルートが認可される。

    ・ 1849年10月、米国とホンジュラスが、運河ルート北西端の太平洋出口に当たるフォンセカ湾 (Golfo de Fonseca) 内にある ティグレ島の租借について交渉する。 海軍基地として租借するとの条約を締結する。同年12月、イギリスはヘンリー・ブルワー (Henry Bowler) を米国に派遣し、クレイトン (Clayton) 国務長官とニカラグアをめぐる紛争を協議する。

  • 1850年
    ・ 米国とイギリスとの間で、⌈クレイトン・ブルワー条約⌋ (Tratado de Clayton-Bowler) を締結し、 地峡をめぐる紛争を解決する。 両国のいずれの国も ⌈ニカラグア地峡を両国の共同管理下におくこと⌋や、両国のいずれも ⌈他方と合意することなく 地峡の通航可能な運河に関するいかなる排他的な支配権を取得すること⌋ をなさないこと、またそれを維持しないこと、 ⌈中米のいかなる部分をもこれ以上占領しないこと⌋ に合意する。
    ニカラグア政府はこの交渉や条約締結に関与することは一切できなかった。
    ・ 1850年 パナマ地峡横断鉄道の建設が開始される。
  • 1850-1852年
    1850年から1852年までの間に、⌈トランジット会社 (la Compañía del Tránsito)⌋ の要請により、 チルズ大佐 (Colonel O. M. Childs) がニカラグア内を通過する運河ルートを特定するための完全な調査を初めて実施した。
  • 1851年
    ・ 1851年6月、ヴァンダービルトの運河会社が正式にニカラグア湖を利用した通航路の運行を開始する。

      ・ 大西洋側のサン・ファン・デル・ノルテからサン・ファン川を遡り、ニカラグア湖を経て、その湖畔のラ・ビルヘンからリーバス地峡 を定期乗合馬車などで太平洋側のサン・ファン・デル・スールへショートカットするルートを開拓する。そこから船でサンフランシスコ などに向かった。パナマ地峡経由の ⌈アメリカ郵船⌋ との競争に打ち勝ち、5年間で10万人の乗客を輸送した。

      ・ 1868年にパナマ鉄道が開通したが故にニカラグア旅客通航路は急速に衰退するに至ったが、その時期に至るまでは、ロンドン、ニューヨーク、ニューオーリンズなどから数多くの蒸気船がサン・ファン・デル・ノルテに寄港した。 特に、米国カリフォルニアでのゴールドラッシュ時には大勢の欧米人がこのルートを利用した。同ルートをもってニューヨークとサン フランシスコとが42日間で結ばれた。

      ・ ヴァンダービルトは、サン・ファン川のデルタ地帯内の潟湖に何台かの浚渫機船を配置してサン・ファン川への土砂の堆積 を取り除こうとした。その堆積土砂は鉄道レールの敷設に利用された。当時の浚渫船の一隻がサン・ファン・デル・ノルテ近くの潟湖に 沈没し、上部構造を空高く突き出している。

      ・ グレイタウン (サン・ファン・デル・ノルテ) の対岸に建設されたカリブ海沿岸の基地 プンタレーナスはグレイタウン以上に発展することになった。

    ・ 1851年8月、ヴァンダービルトは、⌈アクセサリー・トランジット運河会社⌋ の設立を認めさせる。同年9月、 運河条約改定に対する国民のふ満が高まり内戦へと発展する。

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  • 1852年
    スクワイア領事、両洋間の運河建設を説く。
  • 1855年
    パナマ鉄道が営業を開始する。

  • 1856年
    アメリカ人ウォーカーがニカラグアの大統領に就任する。

  • 1866年
    米国上院は5つの運河ルート (cinco rutas canaleras) に関する評価報告書を受け取る。5つのルートとは、テウアンテペ ク (Tehuantepec)、ホンジュラス、ニカラグア、パナマ、ダリエン (Darién) である。
  • 1867年
    米国とニカラグアとの間で ⌈ディキンソン・アヨン条約⌋ (Tratado Dickinson-Ayón)が締結される。この条約では、 建設されるであろういかなる運河についてもその中立化が謳われている。
  • 1869年
    ・ パナマ地峡横断鉄道が完成する。米国グラント大統領が改めて運河建設への意欲を表明する。
  • ・ スエズ運河が開通する。

  • 1870年
    米国はパナマ運河建設をめざすが、コロンビアとの交渉が不調に終わる。
  • 1872年
    ・ 1872年、米国グラント大統領の下に ⌈地峡運河委員会⌋ が設置される。テウアンテペク・ルートとニカラグア・ ルートが対象に上る。
    ・ 1872年に、米国政府は、チルズ(Childs)大佐によって推奨されたルートを検証するため、Lull 司令官を指揮者とする調査 グループを組織した。
  • 1876年2月
    米国政府の大陸間運河調査会が、ニカラグア・ルートが最適であることをと答申する。これに基づき、ニカラグア政府との交渉を開始する。 運河の排他的使用、米国軍による保護を要求したため、交渉は決裂する。
  • 1878年
    コロンビアが、フェルディナンド・デ・レセップス(Ferdinand de Lesseps)の統括するフランスの会社へ、運河に関する 事業・運営管理権 (concesión) を譲渡する。
  • 1879年
    パリで⌈両洋間運河研究国際会議⌋が開催される。

  • 1880年
    ・ 米国ヘイズ(Hayes)大統領から上院へのメッセージ: ⌈この国の政策としては、米国の管理下での運河でなければ ならない。 米国はヨーロッパ列強のいずれの諸国に対してもこの運河を譲り渡すようなことは一切容認しない。 たとえ条約が存在するとしても、あるいは他の諸国の権利がこの政策に干渉するとしても、公正で自由な交渉をもって 米国の政策を促進し確立すべく適切な措置が執られなければならない⌋。

    ・ ニカラグア政府から両大洋間運河代理権者 (la Provisional de Canal Interoceánico) へ運河に関する事業・運営管理権  (concesión) が譲渡される。
    ・ 1880年1月、フランス人レセップスがパナマ運河開削の工事に着手する。

  • 1881年
    パナマ運河建設が起工される。

  • 1884年
    米国とニカラグアとの間の ⌈ザバラ・フレリンギセン条約⌋ (Tratado Zavala-Frelinghuysen) が結ばれる。 同条約は、米国の諸会社による運河建設、およびニカラグアとの共同所有の権利を取り決めている。 その建設・所有権には、メノカル (Menocal) の ⌈マリタイム運河会社⌋ (Maritime Canal Company) の事業・運営 管理権 (concesión) が組み込まれている。

    [参考] 1884年12月、ニカラグア政府は米国の強い圧力を受けて運河条約(サバラ・フレリンギセン条約)を受諾するにいたる。 米国による単独工事とし、周囲2.5マイルは両国の共同統治とし、米国に排他的権利を付与するというもの。 米国議会は、クレイトン・ブルワー条約との抵触を恐れて本条約を批准するにいたらず。

  • 1885年
    ・ 1885年に、A・G・メノカル(Menocal)は、米国政府の指導の下に、Childs大佐が推奨したルートについての 部分的な再評価を行った。
    ・ 1885年3月、米国クリーブランド大統領は、米国政府による運河権益の独占を断念する。今後、民間会社の進出にゆだねる。 ⌈マリタイム海運・運河会社⌋が権利を獲得する。
  • 1889年
    ・ 1889年10月、⌈マリタイム海運・運河会社⌋ がニカラグア運河の建設工事を開始する。 サン・ファン・デル・ノルテからサン・ファン川に沿ってジャングルを伐採し、鉄道を敷き、幅員85メートル、深さ5メートルの 運河の開削を開始する。メノカル (Menocal) の統括する技術者たちは、蒸気クレーンで (con grúas a vapor) で 桟橋を建設し、入り江を浚渫し、マチュカ (Machuca) の急流 (raudales) の区間を整備した。

    また、1600人の労働者を雇って、運河建設予定地と平行する11kmにおよぶ鉄道 (vía ferrea) を建設し、サン・ファン・デル・ ノルテとエル・カスティーヨ (エル・カスティージョ El Castillo) 間の電信電話線をも敷設した。 しかし、運河会社が経済危機に陥ったために必要な資金が続かず、この試みは見捨てられた。

    ・ フランスのパナマ運河会社が破産する。また、レセップスが死去する。

  • 1889-1901年
    1889年から1901年にかけて、米国海兵隊 (la Marina) の退役提督ジョン・G・ウォーカー (John G. Walker) を委員長とする ⌈ 地峡運河委員会 ⌋ (la Comisión del Canal Istmico ) は、米国政府から調査に関する任務を引き受けた。

    その調査とは、ニカラグア・ルートとパナマ・ルートのいずれがより実際的であり、実現可能性があるかを明確にするための ものであった。それと同時に、建設コストを見積もって経済性の比較を行い、またいかなる条約が必要とされるかを確定する ことが要請された。同委員会は、パナマ・ルートを選択する上で大変重要な役割を果たすことになった。

  • 1890年
    ・ 1890年に、⌈ トランジット会社 (la Compañía del Tránsito)⌋ は過去においてなされた諸々の調査の結果を掘り下げた。 その結果としてニカラグア運河計画をもたらすことにつながった。
    ・ 1890年、マナグアとコリント間に鉄道が敷かれ、道路網も整備される。
  • 1893年
    米国を襲った経済恐慌に連鎖して ⌈マリタイム海運・運河会社⌋ が倒産にいたる。この時点での開削距離は800メートルに留まった。
  • 1893~1909年 ニカラグア・セラヤ大統領統治時代
    1893年セラヤ大統領(自由党)が就任する。政権末期、中米近隣諸国5国間で ⌈平和友好一般条約⌋ を締結し、紛争終結後に新規 事業として運河建設を試みた。っして、それへの支援を米国でなく英国、ドイツなどに求めた。米国にとっては、その大陸領土の 東西を自由に回航できる運河がパナマ運河の他に開通し (米国は1904年からパナマ運河工事を引き継ぎ、 1914年に完成させた)、 かつそれが潜在敵国に支配された場合には、国防上大きな脅威となる。
    1909年、米国は、ブルーフィールズ(Bluefields)で蜂起した保守党反乱軍に対し、外国人保護を理由にして海兵隊を派遣した。 同年セラヤ大統領は辞任する。

  • 1898年
    米国上院において、ニカラグアの運河工事の再開を求める議員立法が、超党派の支持をえて通過する。
  • 1899年
    米国議会において、フランス運河会社の代理人クロムウェル弁護士は活発なロビー活動を展開し、 ニカラグア運河法案を棚上げすることに成功する。米国議会は再び各ルートの比較調査を行う委員会を設置する。


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  • 1900年12月
    米国ヘイ国務長官と駐米ニカラグア大使コレアとの間で、運河建設について合意する。米国の特権事項をすべて承認する。
  • 1900年
    米国共和党ウィリアム・ヘップバーン下院議員が提出したニカラグア運河法案 (ヘップバーン法) が下院を通過する。 ニカラグア運河地帯を確保するために行動する権限を大統領に付与する。
  • 1901年
    ・ 1901年11月、⌈ ヘイ・パウンスフォート条約⌋ が締結される。イギリスは ⌈ クレイトン・ブルワー条約⌋  を破棄することに同意し、ニカラグア運河に対する権利を放棄する。

    ・ 1901年12月、米国は、 ⌈ヘイ・コレア条約⌋ の批准を躊躇するニカラグアに対して、ブルーフィールズに軍艦を 停泊させ威嚇する。 ニカラグア・サンチェス外相が、支払い条件を一部修正した ⌈サンチェス・フェリー運河条約 ⌋ (Tratado Sánchez-Ferry)  に調印する。同条約によって、米国はニカラグアから運河の建設および運営の永久賃借権を取得する。

  • 1902年
    ・ ⌈ 地峡運河委員会⌋ (Istmian Canal Comisión) は、新しい報告書と経済的研究をもってパナマ・ルート案を推薦した。 マルティニク島 (西インド諸島東部) でのペレ火山 (volcán Mont. Pelé en Martinico) の噴火とその被災 (死亡者40,000人)  が意図的宣伝活動に利用され、その結果上院でのパナマ・ルート案の選択を決定づけるに至った。
  • [参考] 1902年2月、カリブ海のマルチニク島のぺレ火山が爆発し、4万人が死亡した。パナマ運河会社の技師長ブナオ・バリーヤは ニカラグアにおける火山噴火の危険性につき米国議会へ大宣伝を行う。
    また、1902年6月、米国議会において、ニカラグアとの交渉に先立って、パナマ・ルート案につきコロンビアと 交渉するよう求めるスプーナー上院議員の修正案が可決される。米国は火山の危険性を理由に、ニカラグア・ルートから パナマ・ルートへと傾く。パナマ運河会社が建設権を米国に売却する。ニカラグア・セラヤ大統領はその後支援を求めて 欧州を歴訪する。イギリス、フランスと援助協定を結ぶ。 ドイツとは横断鉄道を建設することで合意する。日本とは運河建設についての交渉に入る。ニカラグアはこのように米国による支配から の脱却を模索する。

  • 1903年
    11月3日パナマがコロンビアから独立する。米国・パナマ間で ⌈パナマ運河条約⌋ を締結する。
    [参考]1903年、コロンビアが、米国による運河建設を拒否する。米国はパナマを ⌈独立⌋ させ、運河条約を締結させたもの。
  • 1904年
    米国、パナマ運河建設を開始する。

  • 1906年
    イギリスは、ニカラグアのカリブ海沿いのミスキート海岸におけるすべての権益を最終的に放棄する。
  • 1913年1月
    駐ニカラグア米国大使ワイゼルとニカラグア外相ディエゴ・マニュエル・チャモロが運河協定を締結する。上院の反対で流産となる。
  • 1914年
    ・ 1914年8月15日、パナマ運河開通する。
    ・ ⌈ チャモロ・ブライアン協定⌋ をもって、米国はニカラグアから300万ドルで運河の開削権を買い上げた。 これは将来ニカラグアに運河を開削する場合、米国が独占して事業に当たることができる権利を認めたものである。
    ニカラグアの国家財政の建て直しが意図されたものであるが、米国以外の国には ⌈ ニカラグアに運河を作らせない⌋ という 政治的意図が含まれていた。1914年にパナマ運河が開通するなか、ニカラグアに運河は必要なかった。米国にとっては、 将来ニカラグア運河が開削され他国によって支配されれば、国家安全保障上の脅威となる恐れがあった。ニカラグアにとっては、自国に 恩恵をもたらす可能性のある運河建設の夢は断たれた (あるいは、遙か彼方に遠のいた)。 ⌈チャモロ・ブライン協定⌋ は1916年に批准された。
  • [参考] 1914年8月、駐米ニカラグア・エミリアーノ・チャモロ大使と米国ウィリアム・ブライアン国務長官との間で、 ⌈ チャモロ・ブライアン条約⌋ (el Tratado Chamorro-Bryan) を締結する。ワイゼル案を上院の意向に合わせて改定したもの。
    米国は、10日後にパナマ運河を完成する段階にあったにもかかわらず、ニカラグア運河を建設する意思のないまま、300万ドルにて  (債務と引き換えのため事実上はただ)、ニカラグア運河建設権を獲得した。同条約は、ニカラグア内に運河を建設する権利を米国に対して永久に付与するものであり、運河建設のあかつきには100年間の事業経営権 (concesión) を米国に譲渡するものであった。 これは他国に運河を建設させないという権利をもつのと同じである。 その他、コーン諸島を99年間租借する権利、フォンセカ湾での海軍基地の建設権、およびその99年間の租借権を獲得した。

  • 1916年
    米国議会、⌈ チャモロ・ブライアン協定⌋ を批准する(なお、同協定は1970年7月に破棄された)。
  • 1929-1931年
    1929年、米国はニカラグア運河ルートについての新しい調査を承認した。責任者となったのは 米国陸軍工兵隊 (el Cuerpo de Ingenieros del Ejército) のダニエル・I・スルタン中佐 (Teniente Coronel Daniel I. Sultan) である。その調査目的は、ニカラグア運河の実現可能性について、またその建設や維持管理に必要と見込まれる 経費について確認することであった。
    1931年に同調査は終了したが、ニカラグアでの閘門式運河建設 (construir un canal de esclusas por Nicaragua) は 実現可能であること、またその設計についても何の問題もないことが結論付けられた。
  • 1939-1940年
    1939年から1940年にかけて、米国陸軍工兵隊は、艀(はしけ)の通航のための幅員6から12フィート(約1.8~3.6m)の 運河建設のための調査を行ったが、何の着手もなされなかった。
  • 1947年
    1947年、パナマ運河の総裁は、1960年から1975年の間に発生すると見込まれる通航量の増加によるパナマ運河の 容量不足に備えて、今後なすべきことを明確にするための評価を行った。1970年代の初めにはパナマ運河の 年間通航量は飽和状態に達した。
  • 1970年
    ⌈ チャモロ・ブライアン協定⌋ は、1970年7月に破棄される。
  • 1999年
    ニカラグアにおける両大洋間にまたがる⌈水の運河⌋ (un canal interoceánico acuático por Nicaragua) の建設、および オペレーションの実現可能性について明らかにするための事前調査を行うことを目的として、ニカラグア 政府は⌈ 両大洋間大運河のための作業委員会⌋ (la Comisión de Trabajo para el Gran Canal Interoceánico) を設立した。
    なお、2002年および2006年に、当時の政府によって、同委員会は刷新され再組織化された。



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  • 2006年
    ニカラグア政府の ⌈ 両大洋間大運河のための作業委員会 ⌋  は、2006年8月付けで、 ⌈ ニカラグア両大洋間大運河計画概要書⌋; (Perfil del Proyecto de Gran Canal Ineroceánico por Nicaragua, Agosto 2006)  を作成・公表した。同委員会の作業結果を要約的に取りまとめた概要書の基本的結論では、 ⌈ 運河計画を次のステージへ と押し進めるに足りる十分なベースが構築されている ⌋ というものである。

    同概要書では6つの運河ルートが比較検討されているが、その最有望ルートとして、大西洋側からククラ川~マホガニー・クリーク上流部~ ラマ川上流部~オヤテ川~ニカラグア湖~リバス地峡 (ラス・ラハス川~エル・グランデ川 (エル・ブリット川)) を経て 太平洋へ通じる両洋間通航路を挙げている。また、運河建設の技術・工学・環境・財政などの観点からさまざまな予備的 考察を展開している。

    • 1975年から2005年あたりまでの過去30年間において、人口や生産量の増加にともない、また市場や取引のグローバル化にともない、 世界の海上輸送量は実質的な増加を示している。このため、積載量やサイズが ⌈ パナマックス船 (los buques Panamax)⌋  よりも大きな船舶を建造することの必要性、即ちより効率的で経済的な海上輸送手段の必要性が高まっている。

      新世代のこのような船舶は⌈ポスト・パナマックス⌋として知られる。それらの船舶はより大規模な運河を求めており、 因みにその大部分は100,000トンから250,000トン級の船舶である。 なお、これ以上の大型船ともなれば、航海上の問題のみならず、操船能力(maniobrabilidad)や港湾対応能力上の大きな問題 を引き起こすことになろう。

    • 世界の工業および商業的発展にともなって、造船業の発展そのものに圧力がかけられてきた。また港湾機能の向上についても 圧力がかけられてきたといえる。例えば、貨物の荷揚げ・荷降ろし、倉庫入れ・保管 (almacenamiento) のための施設 の改善、アクセス水路の大水深化 (profundización de los canales de acceso) などが求められて来た。

      海上輸送会社は、海上貨物輸送市場での競争力を向上させるために、長期航海における (en la travesías de sus buques) 船舶運航経費を削減する必要がある。これすなわち、信頼性があり効率的な両大洋間通航路が必要とされる所以である。 また、船舶積載量や輸送時間面での効率性の向上を目的として、航海時間の短縮化につながる両大洋間通航路が必要とされている 所以でもある。





  • 2013年6月
    2013年6月14日に、ニカラグア政府ダニエル・オルテガ大統領は、香港系企業の ⌈香港ニカラグア運河開発投資会社 ⌋ (HK Nicaragua Canal Development Investment Co. Limited; 略称 HKND Group) の 王会長(Chairman Wang Jing)との間で、運河建設プロジェクトおよびその他のサブプロジェクト (⌈ ニカラグア運河&開発プロジェクト⌋ と称される) に関する計画・設計・建設・オペレーション・維持管理などの事業権 (コンセッション) を取り決めた排他的商業協定を締結した。

    ・ サブプロジェクトには、港湾、自由貿易区、国際空港、およびカナル・セコ(canal seco; 陸上運河)と称される鉄道・ 原油パイプラインのインフラ整備などが含まれる。
    ・ 事業権の付与期間は50年間で、その後50年間の延長も可能とされ、最大100年間である。
    ・ ニカラグア議会は、オルテガ大統領・Wang会長との調印前日(2013年6月13日)に同協定の締結を承認した。





  • 2014年7月
    ・ 2014年7月7日、HKNDワークショップが首都マナグアで開催され、
    ⌈ニカラグア大運河総合開発プロジェクトに関する設計計画報告書(Informe de Plan de Diseño, Proyecto de Desarrollo Integral del Gran Canal de Nicaragua)⌋、
    ⌈ニカラグア大運河、 2014年7月、HKND & ERM(Gran Canal de Nicaragua, Julio de 2014, HKND Group/ERM)⌋ などが公表された。

    ・ なお、従来から6候補ルートが選定されていたが、今回HKDNは、(1)候補ルートNo.3は、水資源の観点や投資額が少なくて済むことなどから、候補ルートNo.4よりも優位であるとしつつも、(2)環境・社会インパクトへの配慮の観点から、ルートNo.4を 最終的に選定した。

    ・ 報告書によれば、運河の主要目は以下のとおりである。

      * ルートNo.4は、太平洋側ブリット川の河口~ニカラグア湖西岸のリーバス~同東岸のテューレ川~カリブ海側プンタ・ゴルダ川河口を結ぶ。総延長距離は278km (ニカラグア湖を通過する区間の105kmを含む)。

      * 運河の計画幅員は230~520m。計画水深は27.6m~30m。25,000TEU積載コンテナ船、400,000トンのばら積み船、320,000トンの 石油タンカーの通航を可能とする。年間通航可能量は、5,100隻である。船舶の通過所要時間は30時間。

      * 運河には2つの閘門が建設される: 太平洋側では、ブリット閘門(la esclusa Brito)(リーバス県内の村落リオ・グランデ近く)。 カリブ海側では、カルニロ閘門(la esclusa Carnilo)(カーニョ・エロイサ(Caño Eloisa) およびリオ・プンタ・ゴルダの合流地点近く)。

      * 閘門はワン・レーン(1 レーン)で、3連続式の閘室の階段(3 escaleras continuas)をもつ。閘門での水消費量を節減するため、 各閘室につき3つの節水槽(3 estanques de ahorro de agua para cada escalera)が設けられる。

      * 運河のオペレーションによってニカラグア湖の水位に実質的な変位をもたらすことはない。ニカラグア湖流域の住民らの生産活動、 家庭への水供給においても影響をもたらさすことはない。プンタ・ゴルダ川を堰き止めて、パナマ運河のガトゥン湖のような 人工湖 (湖水面積は395平方km。アトランタ湖と称される) を同河川の流域に造成される。運河のオペレーションのためには、 ニカラグア湖水と併せて、その人工湖水が利用される。 その水量はオペレーションにとって十分である。また、アトランタ湖の水位はニカラグア湖と同じ高さが維持される。

  • 2016年3月
    運河建設工事の着工は2015年末からと公表されていたが、結局着工は2016年末へと延期された。真の理由は不明である。

    2016.03 revised.

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  • 「ニカラグア運河」略年史
    Chronology of Nicaragua Canal

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