紀州の太地(たいじ)は古くから捕鯨の町・鯨類の町として知られる。因みに、
1217年に、太地浦で槍や弓、刀などで鯨を捕獲した。江戸時代の1606年には、「太地捕鯨の祖」とされる和田頼元が、紀州にて、
突取式による組織的な捕鯨(刺し手組)を開始した。
さて、太地の街中にある「順心寺」には、「太地捕鯨の祖」と言われる和田忠兵衛頼元の墓(Gravesite of Wada Chubei Yorimoto, Whaling Founder)があるが、その
墓石の左後方に立つ観光案内銘板には、次のように記される。
和田合戦(注:13世紀)に敗れた朝比奈三郎義秀が流浪の末に太地にたどり着き、頼秀が生まれて和田家の元祖となったと伝え
られている。
その子孫である和田忠兵衛頼元は、慶長11年(1606)になって泉州堺(堺市)の伊右衛門、そして尾州師崎(もろざき)(南知多町)
の伝次の協力を得て組織的な捕鯨を始めた。
(注)「太地捕鯨の祖」と言われる和田忠兵衛頼元の孫にあたるのが、「網掛突取捕鯨の祖」といわれる
太地角右衛門((和田角右衛門頼治のこと)頼治
(Taiji Kakuemon Yoriharu, a pioneer of whaling by netting and harpooning)である。紀州藩主から「太地」の姓を賜り、
和田姓から太地姓に改めた。
[撮影年月日:2024.09.06/場所: 太地町・順心寺の境内にて]