画像1は、「舞鶴引揚記念館」に掲示される、「岸壁の妻」と題するパネルの一部である。写真のキャプションには、「五条桟橋で舞鶴湾
を見つめ夫の帰りを待つ妻と子供たち」とある(舞鶴東港に「五条海岸」がある)。
パネルには、「遥か海の向こうの戦地から未だ帰らぬ夫の無事の帰還を願って港の岸壁などで待ち続ける女性たちは「岸壁の妻」と
呼ばれた。こうした女性たちの中には子供連れで舞鶴へ足を運ぶ者も少なくなかった。また夫の帰りを待つために舞鶴へ移住する
女性もいた」ことが記されている。
画像2は「岸壁の母 端野いせ」を紹介するパネルである。「端野いせ」は1954年(昭和29年)にヒットした歌謡曲「岸壁の母」の
モデルとなった人物である。終戦後未だ帰らぬ息子の無事を信じて港の岸壁で待ち続けた母の心情を歌ったものである。
1956年9月25日付けで陸軍見習士官「端野新二」の中華民国での「死亡告知書(公報)」が母・いせ宛てに東京都知事安井誠一郎
の名で届けられた。だがしかし、終戦後ずっと息子「新二」の無事の帰りを待ち続け、1981年(昭和56年)7月1日81歳でその生涯を閉じた。
同記念館の「引き揚げと舞鶴」と題するパネルが記すところによれば、
・ 海外にいた約660万人の日本人の引き揚げは1945年(昭和20年)9月に米軍管区から開始された。
・ 英国軍管区、中国軍管区からの引き揚げは昭和22年中にほぼ終了した。
・ ソ連軍管区からの引き揚げは昭和21年から始まったが、容易には進展しなかった。
・ 日本国内各地に引揚港が設けられ、昭和25年以降、舞鶴港が国内唯一の引揚港となり、昭和33年の終了までに
延べ346隻の引揚船と約66万人の引揚者を受け入れた。
[撮影年月日:2024.06.11/撮影場所:「舞鶴引揚記念館」(Maizuru Repatriation Memorial Musuem)][拡大画像: x29303.jpg]