2023年6月15日に平戸・川内浦を見下ろす高台に建つ「鄭成功記念館」を訪ねた。同館敷地内に建つ「鄭成功と平戸」と題する石碑や
その他の史跡案内パネルを総合してみると、日中混血の鄭成功の生涯略史が見えてくる。
・ 平戸とオランダとの貿易が最も盛んであった17世紀の頃、中国福建省生まれの明(みん)人の
鄭芝龍(ていしりゅう)がオランダ船に乗って川内浦に来航し居住した(1622年)。そして、時の平戸藩主・松浦
隆信(宗陽公)の下で保護を受け、川内浦に喜相院という屋敷を賜った。
・ 鄭芝龍は川内浦出身の田川マツと結婚し、1624年(寛永元年)7月14日(旧暦)に川内浦近傍の
「千里ヶ浜」へ貝拾いに行ったが、にわかに産気づき、そこで男子(後の鄭成功)を産んだと伝えられる。幼名は「福松」。
・ 鄭芝龍は一時期海賊の大将となり中国南部沿岸で活動したが、後に明朝の招きで中国に帰順し、
要路(=重要な地位)の高官(総戎大将軍に任命される)となった。清が台頭し明王が危機に瀕した時、清朝へ
投降したが、幽閉の身となり1661年処刑された。
・ 鄭成功は7歳の1630年の時に、父・鄭芝龍の故郷の福建省南安へ単身渡海した。15歳で最高学府・南京大学に、20歳の1644年
には南京の国子監太学に入学、さらに21歳で北京国立大学に学んだとされる。
・ 後に明王・隆武帝に謁し、1645年に明王朝の国姓である「朱」姓と「成功」の名を賜った。人々は彼を「国姓爺」と称した。
・ 清の台頭により明王が危機に瀕すると、彼は「招討大将軍」に任命され、「抗清復明」を誓い、軍を率いて明の再興を図ろうとした。
明代末から清代初期には、彼は戦いの軍事拠点を厦門、金門に置いた。結局清との戦いに敗れた。
・ 南京での戦いに敗北すると、清の攻勢は徐々にその勢いを増し、鄭成功軍は台湾に進攻してその本拠を移した。そして、占拠中にあった
オランダ人と戦い勝利し彼らを追放した。
・ 彼は、政府を設置し、法律を定め、開拓を進め、民を養い、時運の挽回を図ろうとした。
善政をしき台湾住民から添われたが、熱病に罹り1662年5月8日(旧暦)の享年39歳で没した。
・ 日中混血の英雄・鄭成功は台湾の国神として敬われ、台南市に明延平郡王祠として祀られる。
・ なお、鄭成功の招きで1645年に泉州に移り住んだ母マツは、後に清の攻撃で泉州城が1646年に陥落したが、その際に城内で自害した。
* 辞典内関連サイト: 台湾・台南市の鄭成功所縁のある古塁などの「特選フォト」(作成中)。
[画像1-3撮影年月日: 2023.06.15/場所: 鄭成功記念館(Zheng Chen-gong Memorial)および近傍の待合施設にて/長崎県平戸・川内町]