オランダは1609年に徳川家康から「平戸オランダ商館」の設置を許された。その後、33年間にわたり平戸を拠点にして日本との交易や文化交流を
行なった。1609年に設置された平戸オランダ商館であったが、1637年に築造された石造倉庫や住居などの破壊が江戸幕府によって順次命じられた。
そして、1640年には、幾つかの理由があって、1639年に完成して間もない石造りの大型倉庫(注*)の破壊が命じられた。
1641年には平戸オランダ商館の長崎出島への移転が命じられた。かくして、33年間にわたる平戸交易時代の歴史に幕が下ろされた。
(*) 現在平戸市内に復元されている「平戸オランダ商館」のこと。1630年代以降急増していた交易品の保管のために1639年に築造
された大型の石造倉庫であり、平戸オランダ商館では最大規模のものであった。1638年12月に本格的に着工され、翌年7月にほぼ
完成した。巨大な木材や約2万個の砂岩の切石が用いられていた。
1609年のオランダ平戸商館設置から1620年代後半までの日蘭交易は小規模なものであったが、1630年代初期から1641年の長崎・出島移転命令
までの期間にあっては、商館の取引は飛躍的に増大して行った。オランダ東インド会社(VOC)は、この後期には、対日関係を交易重視の
方向へ政策転換しており、台湾に拠点を確保するなどして日本市場向け商品を順調に供給できる体制を整えていた。また、
この時期は徳川幕府による鎖国政策が押し進められて行く時期に当たり、同政策の進展も平戸オランダ商館の飛躍の一因となった
(因みに、朱印船の廃止やポルトガル船の追放など、平戸オランダ商館に有利な状況が次第に醸成されて行った)。
さて、平戸貿易時代には、オランダ船は平戸港で荷揚げの後、川内浦(かわちうら)で船員の休養、船舶修理などを行っていた。
また、川内浦は風待ちの港でもあった。画像1の錨は長崎・平戸の「平戸オランダ館」に展示される、1782年(天明2年)に川内浦で
引き揚げられたオランダ船の錨である。画像2の「オランダ錨証明書 1782年 松浦史料博物館所蔵」と題するパネルによれば、
川内浦で引き揚げられた錨に関し、1609~1641年の平戸貿易時代におけるオランダ船のものであることを、当時の長崎・出島商館長
ティチング(1745~1812年)が証明した文書である。ティチングの署名と蝋印が押されている。なお、同パネルには平戸貿易時代
の何年のいずれのオランダ船の錨であるかについての言及はない。
[辞典内関連サイト] 特選フォト「平戸オランダ商館」
[参照文献:「平戸オランダ商館」内の展示パネルほか][画像1・2の撮影年月日:2023.06.14/場所: 「平戸オランダ商館」にて]
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