長崎県平戸の「平戸オランダ商館」の「バタヴィア」と題する展示パネルによれば、ジャワ島西部に位置するバタヴィア
(現インドネシア首都ジャカルタ)は、古くは「ジャカトラ」などと呼ばれていた。オランダ東インド会社(VOC)は、
1619年にバンテン王国からこの地を奪い占領し、VOCのアジアでの本拠地とした。東インド総督クーンはそこにバタヴィア城を構築した。
以後、日本の平戸オランダ商館を含む東南アジア各地の商館は、東アジア本部のあるバタヴィアのVOCからの指令によって統合的に運用
された。そして、オランダの東アジア地域における交易の黄金時代の一翼を担うことになった、と記される。
因みに、オランダはペルシャ湾岸、インド、東南アジア、日本を含む東アジアなどに、24余りの商館を設置した。
また、「東南アジアとオランダ」と題する展示パネルによれば、ヨーロッパ諸国は、高額で取引される香辛料を求めて、スパイス
交易の中心であった東南アジアなどで激しく争奪戦を繰り広げていた。そうした状況下、オランダは遠隔地域での効率的運営
のために、1609年に「東インド政庁」および「東インド総督」を設置し、東アジア全体を統括させた。そして、VOCは1619年にジャワ島
北西岸のジャカトラ(1621年にバタヴィアと改称)を占領し、アジアにおける本拠地とした、と記される。
画像は「停泊中のバタヴィア号 複製 平戸市蔵」と題する、バタヴィアの仮泊場の様子を描いた絵画である。
「バタヴィア号」のほかにジャンク船も描かれている。各地のオランダ商館はオランダの船だけでなく、現地の船をも建造・使用する
ことも多かった。画像の左に見えるのは「バタヴィア城」であろうか、町が城塞に囲まれているかのようにも見える。
城塞下には濠か運河のようなものが設けられ、内港のようになっている。「バタヴィア号」などの大型帆船は沖合に停泊するほかないが、
小型帆船や櫓櫂船に積み替えられ、堰堤にはさまれたアクセス水路を通って内港へと運ばれる様子が描かれている。
[撮影年月日:2023.06.14/場所: 長崎県平戸市「平戸オランダ商館」][拡大画像: x29263.jpg]
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