画像1は、江戸時代、肥後の細川藩主が参勤交代のために使用した御座船の「御座所」(藩主の船室/Hosokawa Clan's Funayakata
(Ship Cabin)である。御座船の名前は「波奈之丸」である。
藩領の東端に位置する豊後の鶴崎(大分市)の湊に係留されていた。豊後鶴崎は別府湾南岸の大野川と乙津川(おとづがわ)の
河口に位置し、天正年間(1573~92年)には大友氏によって城下町が形成された場所である。加藤清正が肥後を治めていた1601年
(慶長6年)、天草と豊後三郡を交換したことで肥後領に加えられた。それ以来、肥後の「東玄関口」として参勤交代においても
利用される重要な港となった。
波奈之丸は5代目藩主・細川綱利が命名したもの。全長約30mあった波奈之丸は約50年ごとに造り替えが行われ、現存する船屋形は1839年(天保10年)に造られた6代目のものである。
同船は明治維新に際して廃船となったが、鶴崎の旧細川藩士・首藤家の尽力で「船屋形」部分のみが保存されてきた。
熊本・江戸間の細川藩主の参勤には平均1か月を要し、随行総勢は2,500名程度、費用は米1,000石、銀700貫余、銭90貫であったといわれる。
金に換算して約12,000両、現在のお金で約12億以上要したという (金1両を10万円と仮定して)。
細川藩主の参勤ルートとしては、熊本から陸路で鶴崎へ。御座船で瀬戸内海沿岸の室津か大坂へ。その後は京を経由して江戸に上った。
画像2は「波奈之丸」の図絵、画像3は「熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図」(明治時代前期、所蔵:大分市歴史資料館)である。
画像4は「波奈之丸」の船模型である。
[参考]2016年(平成28年)に発生した熊本地震では、船屋形は熊本城天守閣に展示されていた折に被災したが、幸いにも
大きな被害は被らなかった。船屋形の解体・搬出から熊本博物館への搬入までの移築事業に2年を要した。
[画像1~4の撮影日時:2023年6月9日/場所:熊本博物館(Kumamoto City Museum)/解説文の主な出典は同博物館展示パネル]
1. [拡大画像: x29240.jpg]
2. [拡大画像: x29243.jpg]
3. [拡大画像: x29242.jpg]
4. [拡大画像: x29241.jpg]