画像1・2は、千葉・九十九里町の「道の駅・九十九里」の中に併設される「いわし資料館」に展示される、大地曳網漁(おお
じびきあみりょう)や、改良揚繰網漁(かいりょうあぐりあみりょう)
に使われた、2艘1組の漁撈船の模型である。展示説明パネルには当該漁法や発展系譜について概略次のように記される。
江戸時代の1620年代の頃、紀州の漁師が偶然にも九十九里浜に漂着し、イワシの地曳網漁を伝えたといわれる。他方、江戸時代に
おける木綿の急速な普及は、「衣料革命」ともいえる大変革をもたらした。そして、綿の主産地であった畿内(きない)、瀬戸内海などの
西国(さいごく)地方では、綿花栽培に適する肥料が求められた。それがイワシを原料にする肥料であった。
西国地方などでの綿花生産の増大に連れ、1620年代には干鰯(ほしか)への需要が高まり、新漁場として関東沿岸が注目されつつ
あった頃である。かくして、関東各地では干鰯(ほしか)を大量供給するために漁場開発が進められた。九十九里のイワシ漁場開発も
そのうちの一つであった。当時獲れたイワシは干鰯、〆粕(しめかす)に処理加工され、綿花のみならず米などの農作において肥料
として全国で広く利用されるようになって行った。
地曳網漁が九十九里浜に最適な漁法として考案され、さらなる改良が施されたのが「大地曳網漁」である。イワシの群れを捕獲するために、
大きな袋網の両端に袖網などを取り付け、それを二艘一組の船から投入した後、網を引いて魚群を囲い込みながら岸の方へ追い込む。
そして、大勢の人々が海岸から網を引き寄せてイワシを浜に引き揚げる。かくして、九十九里のイワシ漁は江戸時代に大いに発展した。
画像1では、大地曳網漁の二艘の網投入船のうち左の船が「逆網船(さかあみぶね)」、右のそれが「真網船(まあみぶね)」という。
2艘で両側からイワシの群れを網に囲い込む。
時を経て、明治23年頃に考案され、その漁獲性能の良さが認められて全国に普及していったのが、「改良揚繰網漁」である。
画像2のような二艘の船で、深さのある大網(巾着網の類)を左右方向へ引き伸ばした後、徐々に円形へと巻きながらイワシ魚群を
囲い込む。十分囲い込んだら、「いわ (錘・おもり)」を取り付けた大網底部のロープを絞って素早く底部を閉じ、イワシを
一網打尽にするという仕掛けである。
[撮影年月日:2023.02.15/場所: 千葉県山武郡九十九里町小関2347-98の「道の駅・九十九里」内の「いわし資料館」
(いわしの交流センター展示室)にて]
1. [拡大画像: x29235.jpg]
2. [拡大画像: x29236.jpg]
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