* 1853年(嘉永6年)、米国大統領の国書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦隊が、開国や通商を求めて浦賀沖
に来航した。
* 翌年の1854年(嘉永7年・安政元年)、条約締結の全権大使であるペリーは幕府からの返答を求めて再度浦賀に来航した。その後、
軍楽隊を伴って横浜村に上陸し、開国に向けての条約締結交渉の席に就いた。
* 世界史の表舞台に初めて登場した横浜は、戸数約100戸の半農半漁の村であった。当時の村は大岡川の河口部に突き出た砂州に
位置していた(図2~4参照)。ペリーらが上陸した地点はこの砂州のほぼ中間であった(現在の「横浜開港資料館」の前面辺り)。
幕府はここに「横浜応接所」を設け一行を迎えた。そして、この地で、1854年、ペリーと林復斎(はやしふくさい)との間で「日米
和親条約」を締結した。下田と函館が開港され、下田には米国領事館が置かれることになった。かくして、日本の鎖国政策は終わりを
迎えた。
* その後、1858年(安政5年)、江戸幕府は、米国のハリスとの間で「日米修好通商条約」を締結した。また、同年に、英国、
フランス、オランダ、ロシアとの間でも修好通商条約を締結した(「安政の五ヶ国条約」と称される)。同条約に基づき、神奈川とともに、
下田、箱館、長崎、新潟、兵庫を開港するに至った。幕府は神奈川については外国公館の反対を押し切って開港場を横浜と決定した。
* 条約上は神奈川の開港につき取り決められたが、東海道・神奈川宿近辺での外国人居留を避けるため、また横浜村は神奈川の一部
であるとして、幕府は横浜村での開港を進め、翌1859年(安政6年)3月にはその建設に着手した。即ち、波止場と「神奈川運上所」の建設、
その背後に外国人居留地と日本人街の整備が進められた。波止場建設が着手された位置は、ペリー一行が上陸した地点(図3参照)と
ほぼ重なっている。
[画像1~5の撮影年月日:2022.04.17/主な出典:横浜港発祥の地である「象の鼻パーク」の一角に設営されている横浜開港とその変遷
を紹介する横浜市の公式案内パネルである]