一枚の特選フォト「海 & 船」
「第五福竜丸」に振り注いだ放射性降下物「死の灰」
「東西冷戦」時代と称された1950年代からの米ソ東西陣営の熾烈な対峙は、軍備競争のなかでも核兵器の開発競争を激化させた。
当時の次なる開発目標は、実際の戦争において使うことができる水爆の実用化であった。
「第五福竜丸展示館」のパネル展示によれば、1950年代に米国が進めた「核兵器キャッスル作戦」のうちの水素爆弾の「ブラボー」の実験("Castle Bravo" hydrogen bomb test)では、1954年3月1日午前6時45分(現地時間)に、水素爆弾がマーシャル諸島ビキニ環礁北西部のサンゴ礁浅瀬の 人工島でさく裂した(日本時間:同日午前3時45分)。 その爆発威力は広島原爆の1000倍(15メガトン、TNT高性能火薬1500万トン相当)であったという。環礁の内海のサンゴが粉々に粉砕され、 きのこ雲によって吸い上げられ、強い放射能を帯びた降下物が広い海域に降り注いだ。後に「死の灰」と呼ばれた。 米軍の記録によれば、立ち昇ったきのこ雲は高さ34,000m、直径200kmに達した。そして、「死の灰」は気流に乗って地球上を周回したと記される。 当時数多くの日本漁船がその実験周辺海域にて操業していた。操業中であった「第五福竜丸」が被ばくしたのは、ビキニ環礁から 東に160kmの海域であった。当時米国はビキニ環礁とエニウェトク環礁を核実験場にしていた。同船が操業していたのは、米国が設定した 危険区域の約30km外であり、自由に航行できる公海上にあった(同船は危険区域のことを知らなかった)。 炸裂から2時間ほど後に、白い灰が雪のように降り注ぎ、乗組員の顔、手足、髪の毛などに付着し、甲板に足跡がつくほど積もった。 その晩から体のだるさ、頭痛、吐き気などに襲われ、数日後には皮膚に火傷症状が出て、さらには脱毛症状が発現したという。 急性放射能症であった。乗組員23名(平均年齢は25歳)の被ばく線量は当時の発表で170~700レントゲンと記される。 さらに、パネル展示によれば、乗組員は焼津協立病院から3下旬東大病院、国立東京第一病院へと移送された。医師団は賢明に治療、乗組員は1年2か月後退院したが、 無線長の久保山愛吉氏は被爆から半年後の1954年9月23日亡くなった。享年40歳であった。 「死の灰」画像のキャプション概略: 静岡大学塩川孝信研究室・同大理学部寄贈の「死の灰」。「第五福竜丸」が帰港して、 被ばく被害の事実が明らかになり、静岡県の依頼で塩川教授が船体調査を行い付着物などの採取分析がなされた。 なお、展示館には、大阪市立大学西脇安博士がガイガー計数管(ガイガーカウンター/放射線測定器)を用いて、陸揚げされたマグロや その他の対象物などを検査している写真や、水爆実験指定海域海図なども展示される。 [画像撮影: 2019年9月3日/撮影場所:「夢の島公園」内の「東京都立第五福竜丸展示館」(Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall/ "The Lucky Dragon No.5" Exhibition Hall)] |