画像1・2は、山本周五郎著の「青べか物語」とゆかりがある、千葉県・浦安の老舗船宿「吉野屋」である。
船宿は東京メトロ東西線「浦安」駅から徒歩5分ほどの、旧江戸川に架かる東西線の「江戸川第一橋梁」のたもとに立地する。
川岸には「吉野屋」の持ち船の遊漁船4隻が停泊する。その日の遊漁を終え帰投して間もない。
作家・山本周五郎は1903年(明治36年)山梨県の現在の大月市の一村に生まれた。本名は清水三十六(さとむ)である。
家は繭(まゆ)の商いをしていた。横浜の小学校を卒業した後のこと、家が貧しかったので、東京・木挽町6丁目
(現在の中央区銀座7丁目)の「きねや質店」(山本周五郎商店)にて、住み込みの奉公人として働き始めた。
彼が20歳の時のこと、関東大震災で質店が被災し休業に至った。彼はそれを機に、小説家を目指し文学修業に励み始めた。質店主の山本周五郎は彼・清水
青年を物心両面で支えてくれたので、小説家を志した彼は店主の名前をペンネームに用いるようになった。
1928年(昭和3年)夏にふらりと浦安の漁村やってきて、翌年秋まで浦安で暮らした(彼が23歳から26歳の時である)。その後、昭和6~同21年まで東京・馬込で
暮らしていたが、昭和21年からは横浜市本牧元町へ転居した。
話しは戻るが、小説家を志したばかりの駆け出しであった文学青年が、昭和3年夏に足を踏み入れた浦安漁村の江戸川べりには葦が茂り、
うらびれた旧い街並み風景が横たわっていた。彼はそこを気に入り、浦安に住みつくことになった。
彼の日記によれば、浦安での暮らしは1年余りで短いが、浦安ならではの人情味ある人々との濃密な
触れ合いを続けた。作家・周五郎は船宿の「吉野屋」で一時部屋を借りていた。彼がノートなどに書き留めていた日記は、その浦安
時代から、その後の馬込暮らしを経てさらに横浜時代へと続いた。さて、31年後に彼の浦安日記は、「青べか日記」
(昭和3年8.12~4年9.20)として書籍化された。
その「青べか日記」に登場する店や宿の中で現在まで唯一残るのは、旧江戸川脇の船宿「吉野屋」である。なお、昭和36年に文藝春秋社
から刊行された彼の代表作の一つ「青べか物語」では船宿「千本」として登場する。その「青べか物語」では、当時の浦安の情景描写とともに、
個性豊かな、あるいは人情味のあるキャラクターをもつ人々との人間模様が30ほどのショートエピソードに綴られている。
ところで、「べか舟」とは海苔や貝を採集する一人乗りの小型の木造舟のことである。そんな小舟が江戸川岸から浦安を斜めに横切る
境川の両岸にびっしりと係留されていた。だが、昭和46年の漁業権全面放棄以降にはあっという間に消えてしまったという。
「浦安市郷土博物館」には周五郎が暮らしていた頃の街並みを彷彿とさせる屋外展示場がある。館内の境川を模した水路にはべか舟
などが浮かび、また八軒ほどの古い建物が再現されている。同博物館は、旧江戸川との交点に端を発し、浦安を斜めに辿る境川の
中ほどの川岸に建つ。
山本周五郎は1967年(昭和42年)に他界した。享年63歳であった。
[撮影年月日:2022.11.24/場所: 旧江戸川河口に架かる東京メトロ東西線の「江戸川第一橋梁」脇に建つ船宿「吉野屋」にて]
* 参考資料: 日本経済新聞記事、日曜版NIKKEI The STYLE「山本周五郎の日記をたどる 大衆小説の達人 35歳の分岐点」(2021年・令和3年
10月3日)、他。