現在千葉市美浜区にある「高洲スポーツセンター」が建っている場所には、かつて全長およそ80メートルもある本物の
船「こじま」が、東京湾の海岸線から約2㎞も内陸にある団地群の一角において、池に浮かぶように鎮座していた。そして、「千葉市
海洋公民館こじま」というユニークな教育施設として活用されていた。1966年(昭和41年)から1998年(平成10年)にかけてのことである。
実は、「こじま」は当初遠浅の稲毛海岸のすぐ地先に接岸し錨を下ろしていた。そして、海岸の埋め立て工事が始まる前までは、
多くの市民らがその「こじま」を「公民館」として利用し、海と船に親しんでいた。ところが、団地群の建設のための海岸埋め立てによって、
船の周囲が陸地化され、市民らは海岸線から遠く引き離されてしまうことになった。
そのため、市民らに海の記憶を取り戻してもらい、海洋教育の拠点としてもらえるようにとの配慮から、「こじま」の直近周囲には
池が造成され、あたかも「海」に浮かぶかのようにする措置が講じられた。かくして、「こじま」は27年間もその池の中で錨を下ろし
鎮座しながらも、公民館としてフル活用されていた。
陸(おか)という異空間に鎮座する「こじま」の過去の経緯を知らない人々は、何故に大船が団地群の真ん中に存在し、どうやって
運ばれてきたのか不思議に思っていたに違いない。
「こじま」の遍歴
・ 太平洋戦争末期の昭和20年に、旧日本海軍海防艦「志賀」として佐世保海軍工廠で竣工し、当時寸断されつつあった海上補給路の防衛
任務に終戦まで就役した。戦時中、戦艦「大和」の沖縄出撃のための航路掃討などを行い、その最後を見送った。
・ 昭和21~24年 終戦後武装解除され、対馬海峡に残された大量の機雷撤去の任務をこなした。また朝鮮半島からの復員輸送にも活躍した。
さらに、米軍連絡船として博多・釜山(韓国)間に就航した。
・ 昭和25~28年 中央気象台(現・気象庁)の定点観測船「志賀」として太平洋上で気象観測の任務に従事した。
・ 昭和29年に海上保安庁に移管され、巡視船「PL106 こじま」と改名される。
・ 昭和29~39年 同庁の海上保安大学校の練習船として遠洋航海実習に従事し、多くの同庁職員の育成に
貢献した。昭和39年(1964年) 海上保安庁の任務が解かれた。
・ 昭和40年(1965年)には、千葉市が払い下げを受け、かつ呉港から千葉市へ回航され、本格的な埋め立て
工事前にあった稲毛海岸に接舷された。
・ 昭和41年(1966年) 「こじま」は「千葉市海洋公民館」として開館する。館内施設:講習室、宿泊室、水族館、図書室など。
・ 昭和44年から稲毛海浜ニュータウン建設の一環として埋め立て工事が始まる。即ち、昭和44年から、錨を下ろした「こじま」
をそのままに、その周囲の埋め立てが進められた。そして、陸地に封じ込められながらも、市民のための「海の公民館」として活用されることになった。
・ 平成5年(1993年)に休館、平成9年に閉館となり、平成10年(1998年)に解体・撤去された。「こじま」は27年間にわたり美浜区の発展を静かに見守って来た。
[撮影年月日:2022.11.24/場所: 千葉市美浜区「高洲スポーツセンター」のエントランスホールの一角に設営される展示室
「海洋公民館こじま」]
* 画像1-7の画像出典: 同上展示室。
* 参照資料: (1)展示室掲示のいろいろな展示パネル。(2)「千葉文化センター」発行の「千葉市海洋公民館こじま」と題するちらし。(3)日本経済新聞
記事「宅地に浮かぶ船の公民館 ~千葉市で住民の憩いの場となった元海防艦、数奇な運命を調査~ 東健一」(2022年・令和4年
12月1日)、他。
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