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画像は「富士川舟運造船所跡」の石碑である(所在地: 山梨県南巨摩郡身延町波高島809-2)。富士川の支流である常葉川の岸辺
(下流に向かって左岸側)に立つ。国道300号線をJR身延線「下部温泉」駅前から常葉川沿いに「波高島」駅方向へ1.5kmほど下り、
同河川に架かる「桃窪橋」を目指すのがよい(道は少し入り組んでいるので分かりずらい)。同橋を渡ってすぐのところから
上流50mにある。最寄駅としては身延線の「波高島」駅。石碑には何の案内板も添えられていないので、造船所跡の歴史的系譜
などは知ることはできない。
身延町のホームページ上にある「第9編 交通運輸と通信」と題するPDF資料の中に「富士川の舟運」という章がある。
節建てとしては、「富士川舟運の始まり」と「舟運と河岸」から成る。
身延町サイトは「http://town.minobu.lg.jp/」である。
その他、キーワード「富士川 舟運 歴史」でネットサーチすると、「まっぷるトラベルガイド」上に掲載される「富士川舟運の歴史」
がある。それらを参照しながら、富士川舟運の歴史について以下の通り概観してみた。同造船所ではかつてその舟運のために
使われた、例えば高瀬舟のような平底の運搬舟が盛んに建造されていたものと推察する。
休題閑話。徳川家康の命により、京都の豪商・角倉了以(すみくらりょうい; 1554~1614年)が1607年(慶長12年)に富士川の
開削に着手した。そして、5年の歳月をもって富士川の航路を完成させた。彼には通商の才智があっただけでなく、開削などの
土木工事技術に造詣を有していた。1606年(慶長11年)に大堰川(おおいがわ)の開削に成功していた。富士川の河床勾配はかなり
急であり、また川への土砂の流出が多いという。富士川は最上川・球磨川とともに、日本三大急流と謳われるほどであった。
角倉は河川水中に横たわる潜岩などを砕き、浅瀬を開きつつ航路を開通させ、鰍沢(かじかざわ・富士川上流部)・岩淵(いわぶち・同
下流部)間の舟運を開始した。それ以来、1903年(明治36年)に中央線が甲府まで開通するまでの300有余年の間、甲信地方と
東海道とを結ぶ大動脈としての役割を果たし続けた。まさに甲斐・信州と駿河とを結ぶ物資輸送の大動脈であった。だがしかし、富士身延鉄道も次第に
延伸されて、1920年(大正9年)には「身延」駅が開設され、舟の姿は次第に減少しその輸送量も下降線をたどった。
釜無川・笛吹川の2大河川が甲府盆地の縁を流れ富士川となって駿河湾へと注ぐ。富士川開削による舟運の第一の目的は、
幕府直轄の年貢米を江戸に回漕することであった。費用が掛かる道路輸送よりもずっと低廉な河川輸送を押し進めようとした。
当然それだけでなく、地域経済に特化した物資の輸送にも活用された。また、身延山への参拝者も大いに利用することになった。
ところで、角倉了以は1554年(天文23年)に京都で生まれ、豊臣秀吉や江戸幕府から朱印状を受け、三代にわたり16隻の朱印船を
安南、トンキンに派遣した。また彼は、大堰川、富士川に加え、天竜川、高瀬川(京都)などを浚渫・開削した。
いずれにせよ、富士川舟運は彼の業績を抜いては語れない。
甲州は幕府直轄の領地、即ち天領であった。甲州の天領からの年貢米(=甲州米と呼ばれた)、即ち御城米を鰍沢から富士川下
り舟でその河口部の岩淵などへ運び、さらに千石船で江戸へ回漕した。千石船は1,800~1,900俵を積載し、8日半で浅草蔵前へ到着
したという。富士川舟運では、舟1隻に32俵を限度にして運搬可能であった。舟運は時間的には道路輸送より圧倒的に早く、また運賃も安く
能率的であった。因みに、明治の最盛期には静岡県に300隻、山梨県に800隻の舟が就航していたという。
富士川舟運での主な河岸(かし)は、富士川下流部にあっては「岩淵河岸」、上流部にあっては「甲州三河岸」と称される黒沢・青柳・
鰍沢であった。特に鰍沢は、同舟運の要衝地・流通の拠点となっていた。なお、釜無川・笛吹川が合流し富士川となるが、
3河岸のいずれも両河川の合流点近くに所在する。
1889年(明治22年)に東海道本線が、そして1903年(明治36年)には中央線が開通し、物流の主役は一挙に鉄道へと移行し、富士川舟運は衰退
の一途をたどった。そして1928年(昭和3年)に富士身延鉄道が全線開通したことで、東海道本線・中央線とが接続することになり、
300年以上に渡り重要な社会的使命を果たした舟運の歴史は、ここに終焉を迎えることになった。
[撮影年月日:2022.10.20/「富士川舟運造船所跡」の石碑所在地: 山梨県南巨摩郡身延町波高島809-2]
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