一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
日本企業によるスエズ運河の拡幅・増深浚渫工事へのチャレンジ
国際海上交通の大動脈であるスエズ運河の拡張および増深のための大改修工事が1960年代初めより実施された。その時、日本の企業が果敢に
この浚渫のための大工事に挑んだ。埼玉県立・川の博物館における、平成23年度春期企画展⌈世界の運河・日本の運河⌋
(平成24年3月10日~5月6日)では、浚渫工事を最も悩ませた運河水底の岩盤の石灰岩質礫岩サンプル、先端がひどく摩耗した浚渫機の
掘削刃先(カッター)、浚渫船模型の他、当時の浚渫工事を写した写真などが展示された。今回、その企業による浚渫工事に関する
系譜などを簡略に取りまとめた。 巨大な陸塊・アフリカ大陸とアジア大陸とを繫ぎとめているのがスエズ地峡である。主に砂漠と湖沼からなる平坦地で、 距離にしてわずか160kmほどである。翻って、地峡をはさんで地中海と紅海、大西洋とインド洋とが隔てられている。紀元前1300年頃に、 地中海と紅海とを繫ぐ小規模な運河があったが、いつしか砂漠の砂に埋没して忘れ去られて行ったといわれる。開通以来今でも、 スエズ運河は国際海上交通の大動脈として両海を結んでいる。再度翻って見れば、両大陸はスエズ運河という細い人工水路によって 切り離されているともいえる。そして、両大陸を繫ぐのは一本の長大の橋であり、運河底を通る一本のトンネルである。 フランス人元外交官レセップスが、1859年にスエズ運河の開削に着工し、約10年の歳月を費やして1869年に完成 させるにいたった。 運河は海面と同じ水位にある、いわゆる「海面式運河」である。水路の底での幅員は22m、水路の水面での幅員は60~100m、水深は7.9m、全長は 162kmであった。21世紀の現在でも、スエズ運河は、アフリカ大陸を迂回した場合に比してアジアとヨーロッパとの距離を大幅に短縮する 国際海上幹線水路である。 年間14,000隻ほどの船舶が通過し、莫大な運河通行収入をエジプトにもたらす。
運河は、その開通以来長期にわたりフランスあるいはイギリスによって支配された。アメリカ、イギリスによる
ナイル川上流のアスワン・ハイ・ダムの建設が中止となるにいたったため、1956年7月、時のエジプト・ナセル大統領は対抗策として
運河の国有化*を発表した。
他方、世界の海上輸送にあっては、巨船化によるスケールメリットが追い求められ、必然的に運河の拡幅と 増深への期待が高まった。この運河通行船舶の大型化に対応するため、いわゆる⌈ナセル計画⌋に基づいて、1960年には 運河を拡幅・増深するための大改修工事が始まった。この工事に日本の企業も 果敢に挑戦した。その企業とは、1961年から初めて改修工事に参加した当時の⌈水野組⌋、現在の⌈五洋建設⌋である。 運河の底には⌈悪魔の岩盤⌋と呼ばれるほどの岩層があって、その掘削は筆舌しがたい苦難の連続となったという。 特にコンクリートの5倍以上の硬度をもつ石灰岩質礫岩 (画像参照:そのサンプルが展示されている) の岩層掘削は難関中の最たるものであった。 五洋建設は、数多くの浚渫船を建造し、その浚渫装置およびそれに用いられるカッター/掘削刃 (画像参照:そのサンプルが展示されている) の改良を行いつつ掘削への挑戦を続けたものの、カッターの摩耗度は驚くべきものであった。
工事は、1967年の第三次中東戦争*の勃発により中断され、長らく運河も閉鎖された。
その後1974年に改修工事が再開され、中東和平成立後の1975年6月には平和のシンボルとして運河が再開された。
また、その後1975年から始まった大規模な運河拡幅・増深計画では、五洋建設は13工区のうち7工区の施工を請け負った (画像参照)。かくして、
中東戦争をはさんで延べ約20年におよぶ運河の浚渫工事は、1980年12月に完遂するにいたった。
* なお、1973年10月6日、エジプト・シリアはイスラエルに先制攻撃し、第4次中東戦争が勃発した。エジプトは運河を東に渡り、 その東岸の確保に成功した。 その後イスラエルが反撃し、同月16日運河を西に渡り西岸一部を確保し、同月23日に停戦にいたった。⌈十月戦争⌋とも呼ばれる。
⌈五洋建設改修プロジェクト⌋の概略(追記) 1882年エジプトに最初の民族主義的反乱が発生した時、英国はその鎮圧を口実に運河を占領し、その後1956年までスエズ運河を支配した。 その後、エジプト政府によってスエズ運河改修が計画された(⌈ナセル計画⌋と称される)。 1960年を初年度とする工期10か年に及ぶ大規模な運河改修計画であった。 同計画は、運河全線162kmの⌈複線化⌋と、最大級のタンカーが通行できるように水深を深くしようというものであった。 それまでの水深は約10mであったが、これを11.5mか、13.2mへ、やがては約14.5mにまで深めるという壮大な計画であった。
スエズ運河改修工事の第1回国際入札では、日本側は参加を見送った。五洋建設(当時、水野組)では、第2回国際入札に備えて具体的な
準備が進められた。第2回の入札は、1961年(昭和36年)6月5日に行われた。
同社は改修工事への参加を期して、大型浚渫船の建造を開始し、1961年1月31日にはタービンポンプ式5000馬力の浚渫船⌈スエズ号⌋
を進水させ、かつその落札を待たずにスエズへと回航した。 第2回入札では一番札で落札し、1961年8月8日に改修工事契約の調印式が行われた。 岩盤の硬度の分析・調査を行い、掘削に適したカッターの製作を進めたものの、岩盤掘削は難儀を極めた。カッターの異常なほどの摩耗度に 悩まされながら、そのカッターの改良に苦心を 重ねつつ浚渫に挑戦した。 ⌈スエズ号⌋は、強靭な特殊カッターをもって石灰岩質砂礫の水底岩盤を次々に掘削、 かくして改修工事の第1期工事は2年がかりで完成した。 当該実績によって、1964年(昭和39年)5月に、五洋建設は第2期改修工事を特命随意契約というかたち (入札を行わず条件交渉をもって 契約すること)で受注した(当時でも国際入札での随契は希有であった)。 また、1965年(昭和40年)12月には、第3期工事も特命随契で 受注するにいたった。
第1・2・3期改修工事の工期と受注金額は次のとおり。受注金額の合計は36億800万円であった。 1967年6月5日に改修工事第4期工事の国際入札が実施され、同社が落札したが、同月同日の第3次中東戦争(六日戦争)の勃発でスエズ 運河は閉鎖され、工事は宙に浮き、工事契約は未締結のままとなった。イスラエル・エジプト間においては、戦争は完全な停戦にたった ものでなく、散発的な砲爆撃がなされる状態が1970年まで続いた。 さらに、1973年10月6日、エジプト・シリアがイスラエルに先制攻撃し、第4次中東戦争が勃発した。 エジプトは運河を東に渡り、その東岸の確保に成功したが、その後イスラエルが反撃し、同月16日運河を西方に渡り西岸一部を確保、同月23日に 停戦となった。
第3、4次中東戦争をはさんで、1967年以来の7年余にわたる砲爆撃の終結を迎えるに至り、運河の幅員70mから160mへ拡幅し、15万トンの船が
通過できるようにする (当時は70,000トン級船舶航行のみ) 超大規模なスエズ運河拡幅増深工事において、1974(昭和49年)10月に、
五洋建設は、その第1期工事を506億円にて受注することになった。
五洋建設は、13工区のうち7工区での工事を担当した(画像参照)。この計画のため、スエズ運河に回航されたのは
⌈日本⌋、⌈紅昌⌋、 ⌈駿河⌋、⌈第3スエズ⌋、⌈第2スエズ⌋、
⌈泰生」⌈第1スエズ」⌈浅間⌋、⌈第18三栄丸⌋、⌈若築丸⌋、
⌈第3大平丸⌋、⌈第1菱和丸⌋の12隻の浚渫船で、総馬6万8400馬力であった。 * 五洋建設によるスエズ運河拡幅・増深工事への チャレンジの系譜を詳しく記すウェブサイト→ 「スエズ運河改修 プロジェクト」(The Suez Canal Renovation Projet (started 1961) /http://www.penta-ocean.co.jp/suez_story/top.html。
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1 2 1. カッターの先端部。カッター(左側)の刃先が大幅に擦り切れており、岩盤の硬さを物語る。 [拡大画像: x24437.jpg][拡大画像: x24440.jpg: 説明書き、近代の歴史・ナセル計画] 2. ⌈悪魔の岩盤⌋といわれた礫岩。この岩片だけでも25㎏の重さがある。この岩盤がスエズ運河の掘削を非常に困難なものにした。 何度も浚渫機が改良された。 [拡大画像: x24438.jpg]
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⌈Queen of Penta-Ocean⌋、スケール 1/500、 総トン数 22,049GT、全長 166.7m、ホッパー容量 20,000m3、 建造所 IHC Holland NV, MAY 1999。 [拡大画像: x24441.jpg] |