「石川島灯台」は、江戸時代において軽罪人や無宿人たちを収容し、職業訓練などを行った自立更正施設「人足
寄場(にんそくよせば)」が所在した石川島の南西部の川端にあった。現在その地に灯台のモニュメントが建つ。
上の画像に見られるように、かつての常夜灯は六角二層であった。石川島灯台跡に中央区土木部公園緑地課によって建てられた
灯台跡案内パネルによると、元の灯台は隅田川の河口や
品川沖を航行する船のための常夜灯であり、慶応2年(1866年)に時の人足寄場奉行・清水純崎が油搾りの益金を割いて
寄場人足の手で築かせた。「最も喜んだのは近在漁師」とある。明治2年(1869年)に再建された、佃島の住吉神社境内の
水盤舎(おみずや)の欄間彫刻にも、この灯台が手漕ぎの「佃の渡し」の背後に描かれている。
灯台跡案内パネルには、その歴史が次のように詳しく記されている。
「佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。
家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に
向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と
佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになった。
その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、
老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が
出来るようになった。
1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて築造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を
佃島と命名した。
石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの
益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。この完成を最も喜んだのは
近在漁師であった。
このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフした
ものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。
平成元年 3月」
画像No.2の灯台右側に住吉水門が見える。ここをくぐり抜けると小さな運河・佃堀にいたる。今では隅田川から佃堀に通じる
唯一のゲートである。このゲートより左側が石川島、右側が佃島ということになる。
[2010.11.20][拡大画像: x23073.jpg][拡大画像: x23074.jpg]
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1. 佃公園周辺案内図。 [拡大画像: x23096.jpg][拡大画像: x23097.jpg: map]
2. 中央大橋と、超高層マンションが林立する「大川端リバーシティ21」(かつてここは石川島という島で、江戸時代には
人足寄場があった。また、石川島造船所が昭和56年まであった地である。超高層マンション群の下方の川端に小さく常夜灯
モニュメントが見える。 [拡大画像: x23075.jpg]
3. 住吉水門から常夜灯モニュメントを見上げる。 [拡大画像: x23076.jpg]
4. 住吉小橋から見上げる。 [拡大画像: x23077.jpg]
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「石川島人足寄場」について
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」での火付盗賊改方・長谷川宣以平蔵(小説で有名な「鬼平」その人)が1789年江戸幕府第
10代将軍徳川家治の老中・松平
定信に寄場設置を建言した。その結果、隅田川河口の中州、石川島と佃島との間の16,000坪余りの土地を拝領し埋め立てて、
寛政2年(1790年)に無宿人・軽罪人らの収容・更正を主な目的とした施設を開場し、平蔵が自ら初代責任者となった。
時代背景をたどって見れば、数十万人が餓死した「天明の大飢饉」(1782-87年)という日本近世史上稀に見る大災害直後の
ことであった。江戸には田畑を捨てて流れ込んだ来た、無宿人・乞食・悪事を働く者らであふれ、治安悪化が常態化していた。
その他、刑期満了したものの引き取り手のない者らをも収容し、人夫仕事をさせたり、大工・建具製作などの職業訓練を
して手に職をつけさせたり、労働の手当ても支給したり、またその一部を強制的に貯金させて3年間の収容期間後にはそれを
もたせたりもした。当時としては画期的な社会更正・復帰あるいは自立支援のための収容施設であったといえる。
辞典内関連サイト
・ 世界の海洋博物館
・ 日本の海洋博物館
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