一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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曳舟川(図絵)、舟引人(ブロンズ像)、和舟(石製)
[東京・葛飾区・曳舟川親水公園]

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画像1は葛飾区の曳舟川親水公園内にある舟を曳く人のブロンズ像である。画像2は同公園内に設営された「曳舟川の歴史」と題するパネル である。そこには次のように記される。
    「綱をかけた小舟を、川岸から引く。これが曳舟川の由来です。
    江戸時代前期の1660年代に作られたという本所・深川方面へ通じる水路が、その後下流側が埋め立てられ 上流部だけが残ったものです。
    「曳舟」は、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の28町(約3キロメートル)の水路で始まりました。
    当時は帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用し、江戸近郊の風物として人気を呼びました。」
パネルに記される図絵は、「絵本江戸土産」 四(よ)ツ木通(どほり)引舟(ひきふね)道(国立公文書館蔵)からの出典である。

画像3は「和舟」と題した巨石の舟のアートモニュメントである。何のパネル説明もないが、篠原村(現四つ木)から亀有村の間の約3キロメートル の水路である曳舟川で始まった曳舟をイメージしたアート作品であろうか。 画像4のスチールにエッチングされた図絵(画像2のそれと同じ)の説明パネルには以下のように記されている。

    四ツ木通(よつきどおり)
    引舟(ひきふね)道碑
    「前(まえ)に記せし 堀割(ほりわり)の その長(なが)きを 二里に餘(あま)り  末流新宿(はつりゅうにひじく)の 川に入る道(とおり) そを過(よぎ)るの  旅客(りよかく)舟(ふね)に 乗(のつ)て往還(わうくわん)すれと 元来幅(はば)の狭(せは)きに よりてその舟に 縄(なわ)を挂(か)け陸(くが)に  在てそれを引く 因(よつ)て引舟(ひきふね)通(とお)り  と唱(とな)ふ水竿(ミさお)を 操(あやつ)り櫓(ろ)を出すより  またその客(さま)ハ風雅(ふうが)なり」(注:原文のまま)

    国立国会図書館所蔵
    「絵本江戸土産」「四ツ木通曳舟道」

その他、曳舟川親水公園内には「葛西用水と曳舟」と題する銅板碑が建てられている。その碑文は次の通り用水と曳舟の歴史を解説する。

    「葛西用水と曳舟(ひきふね)」
      親水公園として生まれ変わった水路は、江戸時代には葛西用水とよばれ、利根川中流の川俣(埼玉県羽生市)を取水口とし、 万治3年(1660)関東郡代伊奈忠克によって開削された農業用水路です。当初は幸手用水と称されましたが、享保4年(1719) 上流に新たな元圦(もといり)が儲けられたことにより、羽生・幸手・新方・松伏・二郷半・八条・谷古田・淵江・ 東葛西・西葛西領の十か領・十一万石余・267か村を灌漑する大用水となりました。

      用水は、西葛西領に入ると槐戸圦(さいかちどのいり)(編者注: 「槐」は木偏ではなく扌偏である)(常磐線ガード下) 付近で東井堀と西井堀を分け、本流も東側に中井堀、西側に古上水堀の二筋となり、四ツ木村付近まで平行して 流れていました。

      このうち古上水堀は本所に上水を供給していましたが、享保年間に上水が廃止となり、その後、曳舟が始まったと いわれています。曳舟の名は、亀有村の水戸街道際から篠原村までの間の二十八町(約3㎞)を、舟の舳先に付けた長い綱を肩に懸けて人が 引いたことにちなんでいます。「新編武蔵風土紀行」によれば、舟は亀有村に七艘、篠原村に二艘、四ツ木村に三艘あり、多くの文人墨客が 来遊して葛西の風物を楽しみました。 (注:原文のまま)

[画像1-4撮影年月日:2019.4.5/撮影場所:東京「葛飾区立郷土と天文の博物館」(Katsushika City Museum)の正面前に所在する曳舟川親水公園にて;  博物館は京成本線(上野・成田間)「お花茶屋」駅下車徒歩10分ほどの距離/博物館住所: 〒125-0063東京都葛飾区白鳥3-25-1、 電話:03-3838-1101]

1.[拡大画像: x28551.jpg]、2.[拡大画像: x28550.jpg]、4.[拡大画像: x28552.jpg]


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