一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
「遣唐使の出港想像図」 [大阪歴史博物館]
画像は遣唐使の出港想像図である。館内の説明パネルが記す所は以下の通りである。
7-8世紀難波 (なにわ)*は大陸文化の窓口であった。難波を発した7・8世紀の遣隋使・遣唐使は22回、 遣新羅使は32回に及び、また海外からの使者も隋・唐から10回、新羅からは66回も来着している。難波津*には外交施設 である客館(むろつみ)も立ち並んでいた。」 * 難波: 現在の大阪市およびその付近の昔の古い呼び名. * 難波津(なにわづ):「八軒家の歴史 7~8世紀頃この辺りに難波津があり、遣隋使・遣唐使が ここから旅立ちました。 ………」
[参考: 英語]
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1. 古墳時代中~後期頃の難波 (なにわ) の地形図。難波は上町 (うえまち) 台地の北部に位置する。河内湖は奥行きの深い内浦であり、 大阪湾とは狭い水路で結ばれていた。淀川は河内湖と大阪湾の双方に流れ込んでいた。縄文・弥生時代での河内湖の面積はもっと広かった。 [拡大画像: x26238.jpg:年代別の難波周辺地形図] [拡大画像: x26239.jpg]
2. 7世紀中期~8世紀後期にかけて難波京、藤原京、あるいは平城京が置かれた時代の地図。
難波京の北側に内浦と大阪湾とを結ぶ水路・難波堀江が見える。堀江は古墳時代中頃 (5世紀) に開削されたとされる。
[拡大画像: x26245.jpg] |