一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
大阪・
画像は大阪市内を流れる大川 (旧淀川) 沿いに立地する八軒家浜 (はちけんやはま Hachiken-yahama)の最近の風景である。正確に言えば、
大川沿いの「八軒家 (はちけんや) リバービューウォーク」と称されるところからの風景である。二人して座っている川べりには、
雁木(船荷を揚げ降ろしするための水べりの階段)がある。八軒家浜はその昔船着き場として大いに賑わった。 京都市街、又はその近傍を流れ下る鴨川・桂川は、京都・大阪府境辺りで宇治川や木津川と合流し大河川となる。それが淀川である。淀川は 大阪市内で枝分かれして、本流 (新淀川) はそのまま大阪湾に注ぎ込むが、枝分かれした方の大川 (旧淀川) は、この八軒家浜、さらに 中之島を経て、安治川となって大阪湾に注ぎ込む。その注ぎ出る川口の突端に天保山 (てんぽうざん) がある。 日本の高度経済成長期に瀬戸内海にて多くの定期船航路を走らせていた関西汽船の桟橋と客船ターミナルがあったところである。
画像に写る常夜灯の台座には、八軒家浜の歴史について次のように記されている。
7~8世紀頃この辺りに難波津があり、遣隋使・遣唐使がここから旅立ちました。 明治以降 に交通手段が陸上へと移るまで、この辺りは水上交通のターミナルとして賑わいました。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」 や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、浪花節「森の石松三十石船」にも八軒家がでてきます。」
「熊野古道の起点・九十九王子 * 画像左にある常夜灯の台座3面: [拡大画像: x26171.jpg: 「八軒家の歴史」説明書き][拡大画像: x26172.jpg:「熊野古道の起点・ 九十九王子」説明書き][拡大画像: x26173.jpg: 地図/渡辺津(八軒家)~熊野三山への路] * 1860年 (安政7年) に、夜間における乗下船時の安全のために地元の町人が建てたものである。残存図面を基に復元された。 * 八軒家浜の最寄り駅: 地下鉄谷町線の天満橋駅、または京阪電車の天満橋駅から数分のところにある。 [2012.10.8 大阪・大川 (旧淀川) 沿いの八軒家浜にて][拡大画像: x25161.jpg]
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平安時代後期(12世紀頃)から熊野参詣が盛んになった。白河上皇や鳥羽上皇は鳥羽離宮(現在の 京都市城南宮あたり)で身を清め道中の無事を祈願した後、京を出立。淀川を舟で下って渡辺津(現在の天神橋あたり) で上陸し、熊野街道を通って熊野三山(和歌山県)へ、往復1ヶ月ほどかけて参詣した。 熊野本宮・新宮・那智のいわゆる熊野三山への路は図のように、メインルートの中辺路のほか、大辺路・小辺路・伊勢路があり、 峠越えの古道を中心に、2004年に世界遺産に登録されている。江戸時代以降このあたりは八軒家浜と呼ばれている。 協力:城南宮、熊野三山協議会、大阪歴史博物館」
三十石船は八軒家と京・伏見の間、十一里余(約四五㎞)を上り一日、下り半日で運航し、江戸時代を通して 貨客輸送の中心を占めた。明治三年(1870年)に蒸気汽船が就航すると三十石船は衰退し、明治四三年(1910年) に京阪電気鉄道が天満橋―京都五条間に開通して、八軒家は淀川の貨客輸送のターミナルの役目を終えた。 しかし、現在、水の都大阪再生の核となる取り組みとして、水上交通の拠点となる船着場が八軒家に 完成し、往時の賑やかな水上ターミナルの役目は、現代にも引き継がれている。」 3. 近世における大坂概図。右上の六角形印が大坂城、その左上で大川が大きく曲がっている辺りが八軒家浜である(拡大図参照)。 [拡大画像: x26176.jpg][拡大画像: x26228.jpg][拡大画像: z20105.jpg] 4 4. 八軒家着船場における庶民・乗降客等の賑やかな発着場風景を描いた展示。パネルには、「八軒家は中世以来、 京都~大坂を結ぶ淀川交通の起点で、旅人や運送に携わる人々で賑わった。八軒家を発った三十石船 (さんじゅっこくぶね) は、 淀川をさかのぼり枚方 (ひらかた) を経て伏見に至った。上りに一日、下りに半日を要した。野崎参 (のざきまいり)・ 金毘羅参 (こんぴらまいり) の船なども発着した。」 [拡大画像: x26229.jpg] * 画像3・4: 大阪歴史博物館 |